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第七回 加古川線が走る街@
第八回 加古川線が走る街A
第九回 曇川の流れに@
第八回:加古川線が走る街 A

 大正時代の地図を見ますと、田畑が続く中をJR加古川線の前身・播州鉄道が加古川沿いを北方へ走っています。注目したいのが、加古川駅と日岡駅の間に「なかつ(中津)」、日岡駅と神野(かんの)駅の間には「つりばし(釣橋)」なる駅名が記されているのです。どちらも現在は存在していませんが、それぞれに痕跡を見つけることが出来ます。
 「中津駅」の場所については、氷丘小学校横に昭和40年ごろまでプラットホームの土盛が残っていました、と古くから地元に住む年輩者から聞いたことがあります。大野や大野新村(現在の美乃利)集落から線路西側の小学校内を横切り、河原・寺家町(じけまち)集落へ抜けていました道路は古い「県道」だそうで、線路との交差地に駅が設置されたそうです。現在は鉄道の東側で一部の道路が残っています。
 限られた方が乗降される小学校のためのような臨時的な駅であったらしく、『氷丘小学校創立60周年記念誌』の卒業生座談会のなかでも、「学校の潮干狩りだけ停車……、この駅で降りるのは氷丘校の先生ふたり……」と、当時利用された方の話が紹介されています。
 「釣橋駅」は、日岡山北側ふものとの曇(くもり)川河口付近の線路沿いに「釣橋・釣橋構内」の踏切名や標柱が建っています。『加古川市史』別冊の『加古のながれ』によると、「近畿安全衛生技術センター」付近に駅舎などの存在を紹介しています。当時は現在のような高い堤防もない河川沿いにありましたから、お客さんより川からの土砂を運ぶ目的で設置されたのが理由のようです。
 どちらもすぐには廃止されたそうですが、古い地図を見る限りでは二つ駅の周辺は随分と変化したのではないでしょうか。のどかな風景が続く田畑の中で、特に「釣橋駅」周辺では昭和40年ごろから神野町西条一帯に多くの住宅が建てられ大きく変貌しているからです。付近の諸事情から、かつて存在していました「釣橋駅」の復活を望む声も聞かれます。
 1995年1月の「阪神淡路大震災」のときには、神戸などの阪神地区が大きな被害を受けました。同地域の山陽本線が運行できないため、大阪や京都への迂回路として播州鉄道、播丹鉄道と引き継いできました「加古川線」が大きく見直され、重要視されるようになりました。ただ、これからも走り続けるためには、日常生活の中で日岡駅をはじめ鉄道を利用するお客さんが増えなければならないのかもしれません。
                          20101205 岡田 功(加古川史学会)


かつて釣橋駅があった場所

かつて中津駅があった場所