日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第八回 加古川線が走る街A
第九回 曇川の流れに@
第十回 曇川の流れにA
第九回:曇川(くもりがわ)の流れに @

 日岡山の西ふもとを南方へ流れる加古川左岸に、加古郡稲美町から山の北ふもとを西へと曇川がゆっくりと流れ込んでいます。河口と別府川上流とをつなぐ工事が行われていますが、終了しますと別府(べふ)川経由で播磨灘へ注がれるようになります。
 浅瀬が続く穏やかな川面の風景も、古代には今より水深がありましたので周辺の様相は現在とは少し違っていたのではないかと思われます。奈良時代の『播磨国風土記』には、小さな船が往来する重要な交通路として記されているからです。
 ――むかし、神前村に荒ぶる神が出没して往来する船をことごとく止めるので、印南之大津江(いなみのおおつえ)から加古川を上り賀意理多之谷(かおりだのたに)より舟引原(ふなびきはら)で船を引揚げ赤石郡林潮へ出た、と周辺の地名を散りばめた「おはなし」が記されています。
 現在の地名と照らし合わせながら、どのような順路をたどったのか追ってみます。「印南之大津江」は、「鹿児(かこ)」や「日岡山古墳群」のなかでも記しましたが、当時の港は加古川河口になる東神吉(ひがしかんき)町砂部(いさべ)・米田町船頭(ふなもと)周辺になります。加古川を上ると「賀意理多之谷」の名称は現在ありませんが、谷の名前が訛ったともいわれる「曇川」があります。東方の上流へ行くと、谷あいは稲美町の天満大池に辿り着きます。
 「舟引原」は大池西側の同町六分一(ろくぶいち)の小字(こあざ)名「舟引」付近で「お旅地蔵」が建っています。大池東側には隣接してバス停「泥ヶ谷」付近が、水路の意味を持つ同じく六分一の小字名「蕩ヶ谷(とうがだに)」になります。工場などが密集していますから少し判り難いのですが、大池西側の西流に対して小さな水路が東流しているのです。
 「舟引原」が分水嶺になっていたからこそ、のちには谷を堰き止め大池が築造されたのです。大池ができる前は、風土記に記す「舟引原」で船を引揚げなければ進められなかったから「舟引」と小字が名付けられたのです。さらに東方へと谷は続き、瀬戸川と合流して旧明石郡内の瀬戸内海へと注いでいます。「林潮」は赤石郡内の海の名称と考えられるのです。
 「荒ぶる神」の存在は研究者の間では幾つかの意見がありますが、台風などの海が荒れた状態を意味するのではないでしょうか。当時は小さな船でしたから少しでも風が吹くと転覆しかねないので、海を通らずに加古川と瀬戸川の間を迂回したり待機するための水路ではなかったか、と考えられます。また川を通じて内陸部への重要な交通路であったのを風土記は説明しているのではないでしょうか。  
                           20110111 岡田 功(加古川史学会)


曇川が加古川本流に注ぐ地点

曇川と別府川をつなぐ工事をしているところ(JR日岡駅のすぐ東)