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第五十九回 平荘湖C
第六十回 御陵道
第六十一回 聖徳閣
第六十回:御陵道 ―加古川市加古川町―

57回【高架下の供養仏】の原稿を加古川町美乃利在住の友人に見せたところ、「御陵道」は加古川駅から北東の大野新村(12回【美乃利】参照 明治初年に大野新村と間形村と合併)へ直線で延びて日岡神社へと走っていたのが最初ではないか、と以前に地元の古老から聞いた、との指摘がありました。
 明治時代の地図を取り出して再確認すると、間違いなく直線道路が通っていました。ましてや西国街道(旧山陽道)の加古川町平野から北方へ延びる道路は記されていなかったのです。狭い畦道を通行していた可能性もありますが、道路としては描かれていなかったのです。
 現在の市道平野・神野(かんの)線が「御陵道」というのを随分前に古老から教えて貰ったのですが、すでに亡くなられており確認は出来ません。人々の記憶から消えつつあるので、調べ直さなければならず、いつごろからなのか該当する資料などで探しはじめました。
 インターネットなどによれば、景行天皇の皇后は『播磨国風土記』では「褶墓(ひれはか)」に葬られている「印南別嬢(いなみのわきいらつめ)」、『古事記』の「針間之伊那毘能太郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)」、『日本書紀』の「播磨稲日太郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)」と「播磨太郎姫」が同じ人物かを確認して、明治16年(1882)に陵域を定め2年後に修陵、同28年に陵墓として制定されたとあります。
 山陽鉄道(JR山陽本線)は同21年12月23日には開通して加古川駅が設置されています。御陵への最寄りの播州鉄道(JR加古川線)日岡駅は大正2年の開通ですから、まだ走っていません。遠方から列車を利用しての利便性を考え敷設されたのでしょうか。長い年月のあいだに駅から大野新村への直線道路は駅周辺の区画整理事業で寸断されてしまいました。日岡神社への広い新道がつけられ、当時を偲ぶ面影はなくなりつつあります。
 西国街道まではいつなのかと調べていたら、気になる記述があるとの連絡を受けました。大正3年刊行の『加古郡誌』に行政の項目があり、「明治32年1月(加古)郡会を開く」のなかには、「緊要のものなるに付34年度に於て改修実施するため」の議案「氷丘村ノ内大野村より美乃利村平野村を経て鳩里村(きゅうりむら)ノ内北在家村刀田山(鶴林寺)迄、此延長凡一里」が荒木真二郎によって提出されています。賛成者は大村清七ほか1名とありますが、ただし書きとして「建議後、美乃利村迄と訂正」と記されていました。
 「平野村」の記述は西国街道を横切りますが、実施時期は分かりませんでした。引き続き調べて行かなければならず、ほかにも「御陵道」と呼んでいたのがあるかも知れません。

                                       201800423 岡田 功(加古川史学会)



御陵道(駅方向)