日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第六十回 御陵道
第六十一回 聖徳閣
第六十二回 高架下の供養仏 追記
第六十一回:聖徳閣―加古川市加古川町大野―

 連載の題名にもなっている「日岡山展望台」は、昭和42年に兵庫県が財団法人「野外活動協会」を設置して建設した「ОAAハリマハイツ」の屋上から窺える事柄を描いています。晴天なら申し分のない最高の眺めです。遠くは瀬戸内海や淡路島、眼下に加古川の流れ、街並みなどが広がっているからです。
 人々の記憶から消え去りつつあるのでしょうか。もともと展望台は「聖徳閣」と呼ばれたのがあり、現存しているのは支柱のみになっています。階段口付近には当時の面影を伝える写真と共に説明がなされています。多木化学株式会社の創始者で「肥料王」として知られる多木久米次郎によって建てられた聖徳閣は、昭和10年10月に工事が着工され、翌年の7月に完成しています。
 由来は、どこから来ているのでしょうか。「聖徳」の文字から考えられるのは、聖徳太子と関連するという話があります。多木化学が所在する海岸沿い別府町付近は、古くから鶴林寺(加古川町北在家)の「太子信仰」との結びつきが強い土地柄であると、古老との会話で得た、との意見があります。
 入母屋造り(いりもやづくり)の瓦葺は普通の4倍の特性瓦を使用、150.8坪の平屋の建物です。17間462(37.75m)の奥行で、円周が2.05mの柱は円筒形になり回廊式の周囲でした。昭和25年6月15日に加古川市が誕生する三日前に寄付されています。
 なぜ建設されたのでしょうか。大正の中ごろに着工して昭和8年に完成した別府町の多木浜洋館(通称・あかがね御殿)に続き、「聖徳閣」を建設しています。背景を考えると、9年に大阪城の天守閣が鉄筋コンクリートで再建したので刺激を受け、市内を望める日岡山に建てたのでは、との指摘もあります。洋館は平成14年、大阪城も国の登録有形文化財になっています。もし保存されていたら観光の目玉となっていたでしょう、との意見もあります。とても残念です。
 自由に眺めるのを禁止した時代がありました。第2次世界大戦中には、御陵を見下ろす、との理由を挙げる人もありますが、むしろ南東側の真下に陸軍の航空補給廠(爆弾工場)や高射砲第三聯隊の建設が始まり、機密を守るための処置であったからでした。
 市民の憩いの場となっている日岡山公園は、多くの樹木が植えられ一本ずつに名札がつけられています。特に1500本の桜は3月下旬から4月上旬に咲き誇ります。遊歩道が設置されており、御陵や日岡神社などと併せ四季を楽しんではいかがでしょうか。
                                      201800501 岡田 功(加古川史学会)


かこがわ1966 観光絵はがき




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