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第五十三回 平荘湖A
第五十四回 平荘湖B
第五十五回 加古川宿界隈を歩く21
第五十四回:平荘湖(へいそうこ) B―又兵衛新田―

 加古川右岸を走る県道高砂・加古川・加西線の「池尻ダム口」バス停から湖へ向かう途中、右手・北側へ曲がれば、田畑の先の段丘上に広がっている集落が伺えます。
 第一堰堤東側に位置する閑静な住宅街の一画には平山公園があり、隣接して木々に囲まれた「又部公民館」なる建物が眼に届きました。「又部」とは遠い過去の歴史を呼び起こす名称かも知れません。
 昭和38年に工業用ダム建設が始まり、41年5月に竣工する以前の地図には「又平新田」なる地名が記されています。かつての集落は湖底の北側になり、南西側には「弁天池」、南東側の第一堰堤付近に「升田(益田)池」をそれぞれ記していました。現在は全てが沈んでしまい湖の一部となっています。
 湖の所在地名にもなっている平荘町の「池尻」の地名は、北東に位置する同町山角(やまかど)の報恩寺の天文元年(1532)の中世文書に出ています。
 『印南郡誌』によれば、「池尻村」は本村・平山・又兵衛新田の3地域で構成され、「益田池の池尻に位置するより……」と池の傍で人々は生活をはじめたと名付けられた理由が見えます。
 大きな河川沿いに位置しながらも、上流から水路を引かねばならないうえ、小高い丘陵地が続く山あいは水の確保が難しかったのでしょうか。一帯は原野が続いていたのでしょう、開墾したのは同村の又兵衛でした。ほかに協力者の存在はないようです。同書には「又兵衛新田」の簡単な説明しかなされていないからです。人物像なども紹介されておらず不明な部分が多いのです。ほかの資料では、寛文8年(1668)に開墾、寛保2年(1742)には9軒であった、ともありました。
 江戸時代に池尻村の又兵衛が「大谷」と呼ばれる山あいを苦労して開墾しました。やがて、土地の名前として残りました。地図にも記載されました。「又兵衛新田」から「又平新田」と漢字こそ違いますが受け継がれました。
 湖底に沈む前に、公民館横に位置する地域の氏神さんの名称はどこにも表示が見当りませんが、『兵庫県神社誌』に記載する「市杵島神社」とされ、集落などと共に現在地へ移転しました。かつての呼び名は「又部公民館」へと漢字は変わりましたが、読み方だけは引き継がれたのです。
 公民館の建物に記す「又部」の文字を眺めて、地名が時代と共に変遷して行く一つの事例のような気がしました。
            20160514 岡田 功(加古川史学会)