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第五十二回 平荘湖@
第五十三回 平荘湖A
第五十四回 平荘湖B
第五十三回:平荘湖(へいそうこ) A―慰霊之碑―

平荘湖の第一堰堤南側の湖畔に弁財天神社が祀られています。本殿右手のつつじに囲まれた一画に、高さ2mあまりの石碑が眼に届き、大きく「慰霊之碑」と彫られた文字が伺えました。湖が眺められる境内の片隅で、周囲は木々に覆われており少し分かり難くなっています。左横の「鴨塚」と刻まれた石碑を目印に探せばよいのかもしれません。
 当初は、湖を造成した工事に携わり亡くなられた関係者を慰霊していると思っていました。裏面の碑文を読むにつれて、昭和41年5月4日早朝、カンス塚古墳の最終調査に向かう途中に湖上で水難にあい、無念にも20歳の若さで短い人生を終わらせしまった加藤進一郎さんの慰霊碑だと分かったのです。
 調べて行く過程で、沈んでしまう古墳の大規模な調査などが工事の進行する状況のなかで行われました。19年後の58年に発行した『カンス塚古墳 発掘調査概要』の巻末に慰霊碑の記載がありました。発掘調査は第一次が38年2月25日〜3月10日、第2次は41年4月3日〜5月4日とありました。
 1周忌には加古川市の教育委員会などが編集、発行した『故 加藤君を偲ぶ』と題する20頁足らずのA5の小冊子が出されていると分かりました。両親の「進一郎の生い立ち」をはじめ関係者、同僚の手記が寄せられていました。
 加藤さんとはどのような人なのでしょうか。冊子や碑文によれば、戦後間もない21年1月6日に母の実家になる愛媛県で生まれ、のちには大阪に住んでいます。39年には京都の龍谷大学史学科へ進み、考古学を専攻しました。岡山の発掘調査に参加したあと、41年4月には加古川での調査に加わるのを両親に相談しています。一人っ子だから、気遣いがあったのかも知れません。湖に沈んでしまう古墳の調査に参加したのです。30日のカンス塚古墳の新聞の切り抜きが同封され、帰宅が延びたので申し訳ない、とお詫びの手紙が両親宛に届いていました。
 春休みを利用して数名の友人と共に湖面の南側に位置するカンス塚古墳の最終調査へ向かう途中に悲劇が起こりました。10数mの湖底へ沈んでしまったのです。すぐさま地元の消防団や住民、警察などが捜索しましたが見つからず、翌日の日没ごろになって漸く遺体が引き揚げられました。
 現在は人々の憩いの場所となっている平荘湖ですが、竣工前の調査中に一人の若い命が散ってしまったのを忘れてはならないのです。石碑の周囲には高さ1mほどのつつじで隠れるようにひっそりと建ち、湖を見守っているかのようでした。
                        20160504 岡田 功(加古川史学会)