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第四十九回 加古川宿界隈を歩くQ
第五十回 加古川宿界隈を歩くR
第五十一回 加古川宿界隈を歩くS
第五十回:加古川宿界隈を歩く R ―マンホールA―

 旅先の街での地名が分からなくなるときがあります。地図を手にしていたら見られますが、いつもはポケットや鞄に忍ばせているとは限りません。手ぶらであっても知る方法があります。道路標識やマンホールは用途に応じた名称などの印や記号が入れられています。特に「下水道」には、市町村名と共に記号や図柄が一緒に彫られています。
 地図上での境界には何らかの線が入っていますが、路地などでは表示がありません。マンホールなら境界線を越えると、土地の特徴を表しており違いが一目瞭然です。
 加古川市の市章は、「川」の漢字を真ん中に外側を「( )」で囲む図案になっています。寺家町(じけまち)の大型商業施設の正門前から商店街を横切り少し南下すると、下水と思われる蓋には「カ」を図案化した印が眼に届きました。記号しかないので調べてみました。
 『加古川市誌』第一巻によると、明治22年の町村制が実施されたとき、加古川町(まち)、寺家町、篠原村(大正5年に篠原町〈まち〉)が合併して加古川町(ちょう)になりました。大正5年に町章が募集され、「一般から懸賞募集をしたところ221点が集まった……少し修正を加えて2月1日公表した……」とありました。昭和3年に鳩里(きゅうり)村、12年には氷丘村が合併して町域を広げています。町章のマンホールは本町(加古川町<まち>)、寺家町、篠原町(まち)、鳩里村の木村の一部に使用されたようです。
 市内尾上(おのえ)町養田の加古川沿いに現在でも使用している加古川町の町章のマンホールを確認しました。尾上は、昭和25年6月15日に加古川町をはじめ3村と共に合併して加古川市が誕生しています。尾上に飛び地があったとの記録や歴史はありません。
 明治33年に下水道法を制定するまで、屎尿(しにょう)は肥料として田畑で用いていました。近代に入ると、都市部を中心に水洗や浄化槽が設置されました。伝染病の流行から下水道が整備されていきます。現在では汚水と雨水は分離されていますが、当時の下水道は水位が上昇すれば一緒に河川へ流されていました。
 寺家町の町章のマンホールから南下すると、水路を経て泊(とまり)川へと続いているようでした。一方の養田も追いかけると県道加古川高砂線近くでも見掛けました。上流へは暗渠の水路で続いている可能性がありますが、町章のマンホールは見当りません。ただ、途中にはコンクリートなどの蓋が目に付きました。町章以前とされ、取り換えられなかったのでしょうか。結局は繋がりませんでした。越境して設置された尾上に残る加古川町の町章のマンホールは、浸水などの治水対策も兼ねて加古川へ排水していたころの名残であるかも知れません。

                                        20151031 岡田 功(加古川史学会)

加古川町の町章が描かれたマンホール

左は尾上町大崎町内会の掲示板前のマンホール