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第五十回 加古川宿界隈を歩くR
第五十一回 加古川宿界隈を歩くS
第五十二回 平荘湖@
第五十一回:加古川宿界隈を歩く S ―マンホールB―

日岡山展望台の南西で、加古川バイパス北側の加古川右岸沿いには東神吉町出河原(でがわら)集落が広がっています。加古川町の町章が描かれたマンホールの蓋は地域の氏神さんの益気神社東方にあり、曲がり角を間違えて偶然出あいました。
 勿論、旧加古川町の飛び地が存在したなどの歴史はありません。川沿いですから当初は前回の尾上と同じように、かつての水路を利用して浸水などの治水対策も兼ねて加古川へ排水していた「下水」と結論付けていたのですが、疑問が生じました。現在は道路下の暗渠になっていますが、水路沿いとは思えぬ家並みになっていたからです。江戸時代から続く集落で、尾上のように近代になって宅地造成による開発された地域ではなかったのです。頭の中で時間を掛けて思案をしていても何も浮かんできません。現地を再び訪れました。
 「でがら」とも呼ばれ、文禄2年(1593)印南(いんなみ)郡升田村の山脇九右衛門ほか6名が開墾しました。東・中・五軒屋を合わせて同郡升田新村となり、万治2年(1659)には姫路藩が加古川中洲に「升田堤」を築き開墾地が広くなっています。明治39年に「出河原」と変更しました。
 疑問を解きたく徒歩を選び、方向を定めないまま探索しました。排水なので、もう何カ所かあり、繋がっているような気がしたからでした。分かれ道を適当に曲っていたら東端へ辿り着き、堤防沿いを走る県道高砂・加古川・加西線へと出ました。西方へと向かえば、前回のマンホールが視野に入り結局は探せませんでした。一カ所しか残っていないのでしょうか。残念でならず疑問を解決する糸口とはなりませんでした。
 立ち去ろうとしたときでした。作業をしている年配の男性が眼に届きました。躊躇したものの、優しそうな雰囲気に見えたので「以前は水路でしたか……」と声を掛けました。昔から通行で利用しているとの返答で「下水」だと思い話していたら意外な発言を耳にしました。消火栓の井戸だと言われたのです。
 周辺は江戸時代に河原の高台を開墾した土地ですから、昔から地下水脈は豊富で今も生き続けているようです。集落内には消防用の井戸が五カ所も残っていたそうですが、町章のマンホールは一カ所のみになっていると話されました。同じ蓋はほかにないのか、設置した時期についても尋ねましたが詳細は分かりませんでした。
 意外でした。現在の市章なら気付かず、聞かなかったら浸水防止のための、単なる排水用の「下水」として片付けてしまうところでした。
                                         20160331 岡田 功(加古川史学会)


益気神社

加古川町の町章が描かれたマンホール