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第四十四回 安楽寺の関東震災横死供養之碑
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第四十四回:安楽寺の関東震災横死供養之碑―加古川市志方町細工所―

 江戸時代の俳諧師・栗本青蘿(くりのもとせいら)の妻・おのぶさんの出生地を知りたく、調査中に細工所の安楽寺へ行きました。関連する資料は何も無かったのですが、境内を散策していると「関東震災……」と刻む石碑が草木の中に伺えました。平成7年(1995)の「阪神淡路大震災」直後に訪れましたから、何だろうと当時の住職の奥様にお聞きして裏面にも経緯が彫られていたので、連載していたミニコミへ発表しました。23年の『兵庫県謎解き散歩』でも「『関東大震災』直後、東京浅草へ出かけた若い娘たちとは」の題名で掲載されました。日岡山より北方7q余りの遠い距離ですが、貴重な石碑を報せたく紹介します。
 大正12年(1923)9月1日11時58分に起きたマグニチュード7・9の「関東大震災」は関東一帯を襲い、関西でも揺れを感じたという大きな地震でした。被害は東京を中心に、建物の倒壊をはじめ直後の火災は三日間にも及び、死者行方不明者14万人あまり、そのうち70%が焼死という凄まじいものでした。
 一ヵ月ほどしたころ、「念仏踊り」供養の依頼が細工所出身で東京在住の親戚からありました。当時、地域では法要などで御詠歌に合わせて扇子を手に舞う風習が、死者を弔う行事として頻繁に行われ、踊りのグループが安楽寺にもあったからです。とはいうものの、大震災の直後だけに遠い被災地へ向かうのは、社会不安のなか、どのような気持ちで赴いたのでしょうか。同年12月の百日忌には、細工所から当時14歳を含む20歳前後の若い女性と共に両親や親戚が同行しての、20余名が被害の著しい東京・浅草へ自費で供養に出かけました。滞在期間の食料を持ち、電車を乗り継ぎながら数日かけての行程でした。
 一行は、浅草観世音など10カ所余りで、死者を供養する御詠歌をあげながら念仏踊りを舞う姿に、数百万の市民が感泣したと石碑の裏面に記されています。東京の半分が焼失して、一カ所で100人以上が10カ所、浅草の小学校では1800人が焼死していたからです。この世のものとは思えない悲惨な状況を思い出して、人々の涙を誘ったのでしょう。
 被災地では想像を絶する状景に戸惑いを隠せなかったに違いありません。悲惨な様子を目の当たりにした娘たち一行の思いは、帰郷してから「不慮の災難の死」を意味する「横死」の文字を刻み、震災の犠牲になった死者を弔う「関東震災横死供養之碑」の石碑をゆかりの安楽寺に建立したのです。
 かつて、生きていくためには人々が協力し合い助けあっていかなければならない世の中でした。薄れていく中で「阪神淡路大震災」以降、「ボランティア」の言葉が叫ばれていますが、大正時代に「自費」で赴いた行動は先駆けではないでしょうか。大変な状況のなかでの話が忘れ去られようとしており、継承への取り組みが行われています。

                        20150117 岡田 功(加古川史学会)

関東震災供養碑

志方の安楽寺