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第四十二回 加古川宿界隈を歩くL
第四十三回 加古川宿界隈を歩くM
第四十四回 安楽寺の関東震災横死供養之碑
第四十三回:加古川宿界隈を歩く M ―栗本青蘿(くりのもとせいら) D―

『加古川市誌』第一巻の「青蘿伝」に、武士であったころの青蘿の状況を伝える話が載っています。まだ、鍋五郎と呼ばれ姫路に住んでいるころです。
 毎晩、深夜まで博打に耽り帰宅していました。ある小雨の降る夜、京口御門の橋を渡ろうとしたら28歳ぐらいの女性が藁苞を持ち佇んでいるのに出会います。鍋五郎を呼び止め見せたものは、何と「女の生首」でした。驚き足早で戻り、義母に先ほどまでの次第を語ったところ「このような物では」と、またしても「女の生首」を見せられ気を失ってしまいました。明け方に気付いたときには、景福寺かまえの脇石橋で寝ていた、と記しています。
 青蘿の逸話ですが、少し別の面からみると当時の心境が伺えます。句会へ出掛けていたのを、江戸での状況と同じように「賭場通いしている」と勘違いされていたのでしょう。姫路周辺を避けて、徒歩3時間あまりの加古川辺りまで出かけていたと考えられます。説明をしても誰にも分かってもらえず、いつもやりきれない思いで過していたのか、つい深酒になったのでしょう。毎夜、深夜近くに戻っていたと思われます。若くて元気がある20歳前後とはいえ、歩き疲れから途中で眠ってしまい夢を見たのかも知れません。
 有名人になる過程で必ず出てくる逸話は、多くの人を引き寄せる力もあります。当時の俳諧師の多くは、庄屋や医者などの富豪に俳諧を教えることで手厚い保護を受け、支援する人々も増えていきます。どんなに優れた俳諧師でも誰も相手にされず、応援する人がいなければ各地の俳諧師との交流範囲が限られてきます。当時の逸話だけを鵜呑みにした内容が、誤解されたまま現在へと引き継がれているのは、青蘿だけではありません。
 貞享元年(1684)に生まれた別府村(加古川市)の俳諧師・瀧瓢水(たきひょうすい)は千石船を6、7艘持つ回船問屋の家柄に育ちました。俳諧に手を染めてからというもの商売に精を出すことなく、「蔵売って日当りのよきぼたんかな」からすべての財産をなくした、といわれています。ただ、失ったのは瓢水本人であって、回船問屋は父の亡きあとは祖父や母、妻、息子が盛り立てています。一族が没落したのであれば自宅に長期間、俳諧仲間を逗留させるのは無理です。家族の理解がなければ、息子も京・大坂などから訪れた俳諧師を高砂周辺へと案内しなかったでしょう。資金の援助や支えていたのは家族であるといえます。
 瓢水を奇人や財産を失ったとしたり、竹沢家の養子になった青蘿は「博打」が原因で武士をクビになり松岡姓へと戻されたなどと、勝手な解釈で各々の人物が紹介されています。逸話の裏側に隠された状況を見直さなければならない気がしました。

                        20141101 岡田 功(加古川史学会)



鶴林寺にある青蘿の句碑