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第四十四回 安楽寺の関東震災横死供養之碑
第四十五回 粟津
第四十六回 加古川宿界隈を歩くN
第四十五回:粟津(あわづ)―加古川市加古川町―

 JR加古川駅前通りの南500m、国道2号線東行きの交差点付近から南方へと広がるのが、市の中心街の一画を担う「粟津」になります。集落はさらに南方へと伸びています。
 室町時代の永正12年(1515)の『鶴林寺(かくりんじ)文書』には「粟津」が見え、江戸時代に記された『播磨鑑』などによれば、古く村人に五穀を施さんとして粟を蒔かせたのが地名のはじまり、と記しています。
 奈良時代の『播磨国風土記』賀古郡に見える「粟々里(あわわのさと)」が、「粟津」としている書物などを見掛けますが、いろいろな説があるとはいえ大きな疑問が残りました。以前には【曇川(くもりがわ)の流れに】で紹介した同里の「舟引原」が、稲美町六分一(ろくぶいち)の小字名「舟引」だと説明しました。日岡山北側で加古川左岸に注ぐ曇川流域を中心に里域が広がるのが分ったからです。地域の歴史を考えずに、単なる「粟」の漢字から推察しているのではないでしょうか。周辺の地理や歴史から命名の時期を考察したいと思います。
 風土記のころの地形を見ると、日岡山の南側は加古川より分流した水路が、三角州のなかを幾筋も走っているのが伺えます。集落内には、庄内川など何本かが南流して粟津川などへと集まり、南端で泊川(とまりがわ)へ注ぎ込んでいるのが解ります。今でこそ海岸から遠い距離ですが、古代は広い湾になった加古川河口付近に位置していたと【海と川の境界線】などで述べています。名付けられたのが古代ならば、河原や湿地帯が多く占めており、「泡」の「やわらかい」などの意味となります。
 中世ごろとすれば「あわひ(間)」の略で境目になります。集落北西、現在の県道加古川高砂線辺りは古代の加古川流路とされ、西側の対岸は泊神社氏子地域の印南郡賀南条(かなんじょう)に接した郡界になります。北部は【日岡神社の伝説】で記したように、東西を走っていた古代山陽道北部は日岡神社氏子の北条郷になります。集落北部の粟津神社は天神社で、尾上町安田の十五神社から当時の海岸近くに建てられた「浜の宮神社」と同じ菅原道真を祀っています。粟津は賀古荘北端で、賀南条と北條郷に隣接する位置になるからです。
 「津」は港の意味になります。古代・中世の港は移動しています。長期間、同じ場所ではなく、簡単な造りなので位置までは確認できていません。命名時には小さな船が着岸する「境の港」と考えられ、やがて上流より運ばれてくる土砂で埋まっていき海岸線や港は南下したのでしょう。
 粟津神社内には昭和30年ごろ、加古川町寺家町(じけまち)より移した戎神社が敷地内に祀られています。ほかには集落南端の加茂神社の存在が気になります。『播磨鑑』以外には資料などがなく今後の課題だと思っています。

                            20150222 岡田 功(加古川史学会)

粟津神社

粟津のえべっさん