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第四十一回 加古川宿界隈を歩くK
第四十二回 加古川宿界隈を歩くL
第四十三回 加古川宿界隈を歩くM
第四十二回:加古川宿界隈を歩く L ―栗本青蘿(くりのもとせいら) C―

青蘿は不運にも江戸から姫路へ移され、23歳で武士を捨てる決心をして俳諧への道を選びました。中興宗匠の栄職を賜わるまでなったのは、本人の実力もさることながら運命を変えていく多くの出会いと彼を支えた人々の存在にほかなりません。
 栗本庵の世話人として名前を連ねる寺家町(じけまち)の大庄屋・中谷慶太郎、志方の玉田黙翁(もくおう)をはじめ、過去帳に見える「武沢三里坊妻、玉田氏おのぶ」の存在が大きかったと言えます。もう一人、記しておかなければならないのは、栗本庵を継ぎ2世となった「玉屑(ぎょくせつ)」ではなかったかと思います。
 玉屑の詳細はあまり知られていませんが、没後に建立された淡路の願海寺(南あわじ市)には「涼しさや波一つづつ暮れてゆく」の句碑と共に宝暦2年(1752)肥後国(熊本県)の生まれで僧侶とあります。天明5年の34歳のとき、肥後国を出ているのは諸国を放浪していた青蘿と出会ったからでしょう。
 播磨には行けず、淡路の常隆寺(淡路市)の住職となっています。故郷にいるときから青蘿にあこがれていたのでしょう、再三、栗本庵を訪ねたり青蘿を島へ招いたりしています。山上の寺院へはほとんど戻らず、仲間と共に俳諧にいそしんでいました。
 寛政元年(1789)願海寺に芭蕉の『笈日記』に記す「ひらひらとあぐる扇や雲の峰」の句碑を建立したのを機会に、憧れていた栗本庵近くの印南郡米田村(高砂市)の神宮寺「薬師堂」の住職となります。さらには俳諧仲間の好意で出来た草庵・印南郡伊保村(高砂市)の「無夜庵」へ移り、播磨と淡路の間を行き来していました。
 高砂市米田に「観月碑」が建っています。『加古川市誌』第一巻によると、「砂部(いさべ)村(加古川市)喜多順庵などと相談して観月亭を設けた……」とあります。碑面には、ほかに比べて一文字大きく玉屑の「大空に障るよの霜月の不二」の句が刻まれています。
 青蘿が亡くなった後、栗本庵を引き継ぎ、師の追善俳諧を各地で行っています。身の回りが落ち着いて来た3年後の寛政6年(1794)には、淡路の俳諧師・藜庵青岐(あかぎあんせいぎ)とともに芭蕉が辿った「奥の細道」の旅へ出発して、青蘿の姉が住む江戸へと立ち寄り、地元の俳諧仲間と共に大龍寺(東京北区田端)には青蘿の「散はなの花より起るあらしかな」の句碑「散花塚」を建立しました。帰国後、行脚した紀行『阿都満珂比(あつまかひ)』を残しています。
 短冊を持ったまま亡くなったという玉屑は、文政9年(1826)8月14日、二条家の招きで京へ行ったのが最後で、75歳の生涯を閉じています。寺家町の光念寺には青蘿の横に墓碑が建っています。
                           20141022 岡田 功(加古川史学会)


弥兵衛塔と観月碑

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観月碑