日岡山公園Fan            日岡山展望台より

日岡山公園Fan
menu

戻る(最新版へ)

バックナンバー

第四十回 加古川宿界隈を歩くJ
第四十一回 加古川宿界隈を歩くK
第四十二回 加古川宿界隈を歩くL
第四十一回:加古川宿界隈を歩く K ―栗本青蘿(くりのもとせいら) B―

青蘿は妻帯者でありました。文化9年(1812)7月20日に亡くなった奥さんの「おのぶ」の墓碑は、光念寺墓地の青蘿墓碑の後ろ手に、小さく隠れるように建っています。「過去帳」によれば、「釈尼清信、武沢三里坊妻、玉田氏おのぶ六十」と見えていますが、出身地や青蘿との婚姻事情などの詳細は分かりません。関連地を探しましたが、江戸時代の女性の出身地や行動を調査するのは、正確な資料が残っていない限り困難かも知れません。
 調査を進めていくなかで、『加古川市誌』第一巻の「青蘿伝」には栗本庵(くりのもとあん)の世話人に大庄屋・中谷慶太郎などと共に「志方玉田喜内」の名前が見えていると判明しました。「玉田」姓が多いのは現在の加古川市志方町野尻になり、東播磨地域の約一割を占めています。何か手掛かりがあるように思いました。
 野尻と玉田家の関わりを進めていたところ、『志方町誌』『印南郡誌』などに詳しく書かれているのを知りました。玉田家は正保2年(1645)姫路藩の命を受けて「虎ケ谷(野尻))を約20年の歳月をかけて開墾した正信にはじまっています。祖父・正之は永禄年間(1558〜69)に飾西郡(姫路市)から細工所村(志方町)に移住しています。医者のかたわら、農業を営み、のちには大庄屋を務めていた人物でもあります。正信の四男で義道の二男・信成(黙翁)は、元禄10年(1697)印南郡野尻新田村に生まれて天明5年(1785)5月3日、89歳の生涯を閉じています。
 さて、市誌に記している「志方玉田喜内」なる人物は、信成(黙翁)の俗称と分かりました。黙翁は父と同じ京都の三宅尚斎について学び、医学をはじめ弓馬剣槍、産業経済の方面にも優れていたといわれています。玉田家墓地の入り口付近の空き地には立札が伺え、正信の書斎があった場所とありました。晩年は4男・義道と共に隠居した「虎渓精舎(こけいしょうじゃ)」跡との表示がありました。
 学界に重きをなした黙翁のそこでの生活環境は、「見えるものは雲と山、聞くものは鴉雀の声、のみなる不便索寛の村落」の中で学問を続けています。ただ、ここに至るまでには、名門に生れたこともさることながら、父親が46歳のときに亡くなるまで、理解と援護があったからこそ、思う存分学問に打ち込み、自らの才能を伸ばすことができたのでしょう。
 「過去帳」に見える「おのぶ」の歳から逆算すると、宝暦3年(1752)に生れたことになります。玉田家の江戸時代の環境や栗本庵の世話人として喜内(黙翁)の名前が見えるところから、「おのぶ」は野尻の出身で喜内の関係者とも考えられますが、現地での証拠となる資料や情報は何も見つかりませんでした。今後の調査に期待をするしかないようです。
                        20141018 岡田 功(加古川史学会)


青蘿の奥さんの墓碑


青蘿の奥さんの墓碑2