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第三十九回 加古川宿界隈を歩くI
第四十回 加古川宿界隈を歩くJ
第四十一回 加古川宿界隈を歩くK
第四十回:加古川宿界隈を歩く J ―栗本青蘿(くりのもとせいら) A―

青蘿は松岡家から竹沢家の養子になるものの「不身持」のため松岡姓へ戻されたとなっています。「博打が原因」との記録もありますが、平成7年に光念寺より依頼を受けて刊行の『加古川 光念寺と栗本青蘿』を発行するにあたり、調べ直したら随分と違っていました。
 一度も松岡姓へ戻されたとの資料は見つからないばかりか、奥さんの「おのぶ」の過去帳には「武(竹)沢三里坊妻」と記されています。江戸時代の資料には見当たらないのに、なぜ松岡姓になったのか。追跡して行くと昭和28年刊行の『加古川市誌』第一巻が最初のようで、のちに出される出版物はほとんどが「松岡姓」となっています。本当に博打に明け暮れて遊び、武士をクビになったのでしょうか。順を追って説明していきたいと思います。
 青蘿は職務に熱心であったかは定かではありませんが、江戸で住んでいた13歳のころに興味を持った俳諧の世界にのめり込んで行ったのでしょう。仕事を忘れ句会へ出ていたところを同僚に見つかったかもしれません。商家や民家で行われていたから「博打通い」と勘違いされたのでしょう。上役の耳にも届き説明しましたが納得されず姫路へと移されます。
 新しい任地でも句会への出席は止めませんでした。近くではなく、徒歩3時間ほどの加古川辺りまで足を延ばしていたのではと思います。またも江戸での状況と同じように「博打通い」と噂を立てられるようになります。荒木良雄著『播磨の文学』には当時の心境は「ありたけは鳴て渡らん川千鳥」の句に現われているともいいます。句会仲間に相談したところ、寺家町(じけまち)の大庄屋・中谷慶太郎から武士を辞めて加古川宿で住むのを薦めたのでしょう。当時、空き家になっていた後の「栗本庵(くりのもとあん)」があったからです。
 諸国を放浪しますが、絶えず連絡を取っていたようです。加古川に残していた竹沢の母の最期を看取っています。目的もなく旅をしたのではなく各地の俳諧師と交流をしていたと思われます。のちには全国各地に門人がいることや栗本庵を継いで2世となった玉屑(ぎょくせつ)もその一人であったかも知れません。肥後国(熊本)に住んでいるときから青蘿に憧れていたのは旅の途中に出会っていたからです。34歳で故郷を離れて播磨へは無理だと知り淡路の常隆寺住職となり、再三、庵を訪れたり青蘿を島へ招いています。
 青蘿が亡くなったあと芭蕉が歩いた「奥の細道」へと旅立ちました。玉屑は途中で江戸へ立ち寄り呼びかけて東京北区田端の大龍寺に「散はなの花より起るあらしかな」を建立しています。江戸でも「博打好きの遊び人」なら多くの協力を得られなかったでしょう。「青蘿伝」によれば安永7年(1778)の姫路界隈と共に、天明4年(1784)には城主より城下の出入りが許され長年の誤解が解けています。
 青蘿が現状を知ったら、「松岡青蘿とは呼ばないで」と言われるかも知れません。

                        20141014 岡田 功(加古川史学会)

光念寺


青蘿墓碑