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第三十八回 加古川宿界隈を歩くH
第三十九回 加古川宿界隈を歩くI
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第三十九回:加古川宿界隈を歩く I ―栗本青蘿(くりのもとせいら) @―

福祉会館から寺家町(じけまち)商店街を横切り、少し南へ行ったところに光念寺があります。門を入ると左手には、寛政3年(1791)6月17日、52歳で亡くなった青蘿の「布南(舟)波(ば)たや覆(くつ)ぬ幾(ぎ)寸津(捨つ)る水の月」と辞世の句を刻む墓碑が建っています。
 本名が鍋五郎の青蘿は、元文5年(1740)酒井前橋藩(寛延2年姫路藩に移封)藩士・松岡門太夫の三男として江戸で生れました。同藩士・竹沢喜太夫の養子となり、16歳で御勘定方になったものの、不身持のため宝暦9年(1759)20歳のときに姫路へ移され、なおも素行が改まらないので、同12年には永のいとまを命じられています。
 姫路を離れた鍋五郎は加古川に竹沢の母を置いて諸国を放浪、25歳のとき義母の最後を見送るため加古川へ戻り明和4年(1766)ごろ再び帰って来ています。寺家町の大庄屋・中谷慶太郎の世話になり、「三眺庵(後の栗本庵<くりのもとあん>)」へと入りました。
 俳諧との出合いは、江戸在住中の13歳のときでした。芭蕉の流れをくむ俳諧師・玄武坊に入門して三李(さんり)の俳号を用いました。道楽であった俳諧を本格的に歩むようになったのは、栗本庵に入って間もなくの明和5年10月12日、芭蕉75回忌からでした。現在の加古川市の福沢善証寺二世東州和尚に入禅して剃髪、「青蘿」の俳号が贈られています。
 青蘿は75回忌には明石市人丸山(柿本神社)に芭蕉が歩いた最西端とされる地には『笈の小文』に記す「蛸壷やはかなき夢を夏の月」の「蛸壷塚」と呼ばれる句碑を建立しています。のちに何度も再建され、現在は台石しか面影が残っていません。俳書『蛸壷塚』も刊行しましたが記載された門人は播磨一円に及び交際範囲も全国にわたっているのが分かります。
 青蘿の名声を高めたものには、寛政2年秋と同3年春、京都の公家・二条家の御会に召され、中興宗匠の栄職を賜ったことでしょう。寛政8年に発行された『蕉門中興俳諧六家集』には樗良(ちょら)、麦水(ばくすい)、蕉村、暁台(ぎょうだい)、闌更(らんこう)、青蘿の六子、此道を得て、各一家の妙処に至れり、とあり18世紀後半において、優にその地位を占める俳諧師となっていました。寛政3年に二条卿花御会に参列して帰宅しましたが、同年5月中旬から頭上癌を患って6月には気力も非常に衰えてしまいました。17日には門人に看取られながら52歳の生涯を閉じてしまったのは、無念であったかも知れません。
 寛政4年(1792)に加古川市北在家の鶴林寺には「春の海鶴のあゆみに動きけり」、寛政6年には東京北区田端の大龍寺に「散はなの花より起るあらしかな」のほか、淡路市の岩上神社の「岩神や神さびはせばほととぎす」や俳号「青蘿」のゆかりの地の福沢善証寺にも「今日よりは頭巾の恩も知る身かな」の句碑がそれぞれ建てられています。

                        20141010 岡田 功(加古川史学会)


福沢善証寺


善証寺にある栗本青蘿の句碑