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第三十七回 加古川宿界隈を歩くG
第三十八回 加古川宿界隈を歩くH
第三十九回 加古川宿界隈を歩くI

第三十八回:加古川宿界隈を歩く H ―大将軍堂―

寺家町(じけまち)商店街は江戸時代の西国街道(旧山陽道)で、交差する県道加古川・小野線の西側舗道を北上してJR山陽本線の高架までには「大将軍」の表示が見えます。奥のお堂への途中に看板が建ち、加古川町北在家の鶴林寺(かくりんじ)との関わりを説明していました。お堂付近の寺家町の小字名・小門口(こもぐち)は、かつて寺の「裏小門」があったというのです。寺家町は寺院の領域とされ、由来のもとになったとの意味からでした。
 寺家町より2qあまり南東にあり、広大な寺域であったとは証明されていません。鶴林寺は尾上町口里の浜の宮神社、寺家町は日岡神社の氏子地域で、堂前の常夜灯にも「日向(日岡)大明神」と刻まれています。なぜ町や街道から離れた北方の位置に別の地域となる寺の裏小門が必要であったのかなどと共に、古くからの歴史を見ると大きな疑問が残りました。
 寺家町のはじまりは、古くから同じ地域とされる東方の野口町野口だと考えられます。古代には荷物などの輸送に欠かせない馬の数が一時期は40頭を置いていた「賀古駅(かこのうまや)」があります。すぐ北側の教信寺付近が「寺家村」と呼ばれていたと、江戸時代の『播磨鑑』などには見えるものの、現在では呼び名が消滅して使われていません。
 印南野(いなみの)台地上に位置していた寺家村周辺は、古代に築造された「駅ヶ池(まやがいけ)」があるように、溜池などで水の確保を行なっていました。人口増加に伴い水の豊富な、当時は加古川河原であった同じ地域内の寺家町を、今でいう都市計画のような開墾が中世後半に行われました。出身地の村名に対して町名が名づけられたものの、同じような地名が近隣に存在しましたから状況を知らない人々の間で表記方法に混乱、紛らわしかったのでしょうか。明治初年には隣接する大辻村と合併して「野口」になっています。
 「小門口」の由来については、用水路の取水門が所在した場所ではないかと考えられるからです。同じような地名「大門(だいもん)」が加古川沿いの西脇市黒田庄と加東市にあります。両方とも寺院との関わりで説明していますが、むしろ黒田庄は「津万(つま)井堰」、加東市では「新部(しんべ)井堰」の水門があることでしょう。「小門口」も日岡山西側で幾つにも分流した「五ヶ井(ごかゆ)」の一つが近くを走っています。水路から水を田んぼへ引くための小さな取水門の名称が小字名として名付けられ、付近にお堂が建てられたのです。
 『加古川市誌@』には「大将軍堂」の記述があります。「大将軍は、暦塞の方位を掌る神……古来より町の鬼門除として祀る……近年は大神宮神社とも呼ばれている……」と見えています。鶴林寺と関連する記載は一行もありません。
 本来の歴史が伝えられていないうえ、「寺家町」の文字だけで調べもせず都合の良い解釈が引き継がれたのでしょう。
                           20140429 岡田 功(加古川史学会)


大将軍堂


小門口公会堂前の案内板
(奥に大将軍堂がある)