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第三十六回:加古川宿界隈を歩く F ―吉田白馬の墓碑―

称名寺境内には江戸時代に大坂で活躍した俳諧師・吉田白馬の墓碑がありますが、草木が邪魔をして見付け難いかもしれません。目印としては前回の【七騎塚供養塔】や火伏八幡宮近くになります。石碑の右面には「十五日間絶食のうえ」とただし書きして、「死たふも/死にとむのふも/なかりけり/死る時とて/今しぬる也」と辞世の句が刻まれています。
 正面に「天明6年(1786)2月15日享年66…」とありますから、逆算すれば享保5年(1720)に生まれています。『加古川市誌@』には、姓は源、名を正品、氏を吉田、俳号は匹練斎白馬、蝶々庵の号とも記されています。詳細な資料が残っていないのは、加古川村に生まれながら大坂へ出て、延享年間(1744〜8)に活躍した十南斎白羽(宝暦5年没・1755)の門人になったからかも知れません。白羽は自分の継承者だと高く評価していたようです。
 多加野村(加西市)に住む目の不自由な竹内玄玄一(竹窓)は、室町時代から江戸時代の150人あまりの俳諧師などの伝記・逸話をまとめた『俳家奇人談』(正・続)を著していますが、著書のなかで白馬散人とのかかわりを記しています。ある年の元旦、白馬が玄玄一に俳句を勧めたところ、「自然の姿が見えないのにどうして俳句が作れようか……」と言いました。そこで一句「心にてみるが見るなり月の色」と詠んだところ、玄玄一はその句に深く感銘して俳諧の道へ進み、江戸へと出ています。
 白馬の名前を意外な場所で見つけました。2013年5月16日の九州への旅の途中に、佐賀県有田町の陶山(すえやま)神社の公園を訪れました。松尾芭蕉の「雲折々人を休むる月見かな」の句碑を見つけ、写真を撮りました。苔などで読み取り難く詳細は昭和63年に教育委員会が設置した立札を参考にしたのです。「月見塚」と呼ばれ、明和9年(1772)に建立したものです。貞享2年(1685)芭蕉42歳のときの作で、『春の日』などに掲載されていると知りました。戻ってからインターネットで検索すると、「吉田白馬筆」と出ているのに驚きました。誤字や地元の人物の可能性もあります。有田町教育委員会に問い合わせをしたところ、句碑の文字部分の写真と共に、「白馬翁□(散)人」との確認をしていただき「吉田白馬」の可能性があるとの手紙を受け取りました。
 市誌には白馬の詳細はなく、墓碑を建立した子供の勝信は書道などに優れていたとあります。父も同じであったと考えられるものの、有田との繋がりや赴いたのかは不明です。
 江戸時代の加古川周辺は、俳句作りの盛んな土地で、特に青蘿(せいら)が寺家町(じけまち)に栗の本庵(くりのもとあん)を結び、明和5年(1768)には明石・人丸山に芭蕉の「蛸壷やはかなき夢を夏の月」の句碑を建立しています。出身地の加古川の動向に白馬は刺激を受けたのかも知れません。

                           20140414 岡田 功(加古川史学会)


吉田白馬の墓碑