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第三十四回 加古川宿界隈を歩くD
第三十五回 加古川宿界隈を歩くE
第三十六回 加古川宿界隈を歩くF
第三十五回:加古川宿界隈を歩く E ―七騎塚供養塔―

南北朝時代の正平5年(1350)に加古川河原で事件は起こりました。京の都から追っ手を振り切って逃れてきた数人の武士は、多勢に取り囲まれ命果てたのでした。
 発端は都にありました。出雲国(島根県)の守護で石見城主・塩治(えんや)判官高貞は、足利尊氏の執事である高師直(こうのものなお)ににらまれていたのです。そればかりか、高貞を謀叛人に仕立てて闇に葬り去ろうとしていたのでした。師直は尊氏に従い、1331年の「元弘の変」で功績をあげていましたから、とても大きな信頼があったのです。
 事前に計略を知り、主だったものだけで相談したのです。家臣30騎と共に狩に行くと装い、妻も20騎に守られて別々に都を出国、出雲で合流する計画でした。誤算がおきました。高貞の弟・貞泰が密告したため、身内から漏れてしまったのです。
 直ちに多勢の師直に追いかけられ、加古川でとうとう捕まってしまいました。とはいえ迎え討つのはわずかな家臣、全員が討ち死にするのでは、と思った高貞の弟・重貞が身代わりとなって高貞を出雲へ逃したのです。残りで戦いましたが、明らかな数の違いに勝ち目はなくひとたまりもありません。時貞をはじめ木村玄信・源吾、淵名七郎、間島兵衛、山中四郎、平田十左衛門の7人は河原で散ってしまいました。とても悲惨な光景を見てしまったのでしょう、村人達は一人ずつ土盛りの「七騎の塚」を造り供養したのです。
 『加古川市誌@』によると、寛延2年(1749)の大洪水で一塚か流されたとあります。宝暦4年(1754)の後藤基邑著『播磨事始経歴考』には「残るのは僅か一塚」と記され、同8年(1758)の天川友親著『播陽里翁説』では同じのであったのかは分かりませんが、「塩谷六郎(重貞)の塚」と見えています。明治時代になっても残っていたそうですが、鉄道敷設や河川改修、工場敷地などで無くなってしまいました。
 江戸時代に2基の石碑が建てられました。市誌によれば、忠士を顕彰するため一字一石の供養塔を建立すべく始められたものの、中途になっていました。のちに、志は引き継がれ文政3年(1820)芸国(広島県)の頼(らい)山陽(襄)の書で出来上がりましたが、河川改修時には本町(加古川村)・称名寺境内の火伏八幡宮前へと移されました。
 もう1基は、江戸時代まで加古川村の一部をなしていた船頭(ふなもと)集落にあります。71歳の生涯を閉じる3年前の山陽の父・春水(惟完)の書で、文化10年(1813)には「七騎塚」の石碑が建てられました。
 かつて村人が加古川河原に造った「7人の塚」も洪水などでもう残っていませんが、江戸時代に建てられた供養塔や石碑の銘文によって悲しい歴史を伝えています。

                       20130430 岡田 功(加古川史学会)


七騎塚供養塔