日岡山公園Fan            日岡山展望台より

日岡山公園Fan
menu

戻る(最新版へ)

バックナンバー

第三十六回 加古川宿界隈を歩くF
第三十七回 加古川宿界隈を歩くG
第三十八回 加古川宿界隈を歩くH

第三十七回:加古川宿界隈を歩く G ―鹿児(かこ)の松の歌碑―

常住寺境内に、大きく深彫りした「鹿児の松」の文字が目に入ります。横面には「けふはまた田鶴の啼音も春めきて霞みにけりなかこのしま松」と刻む歌碑が建っています。
 寺院はもともとから現在の地にはありませんでした。昭和58年までは、JR加古川駅南方の西国街道(旧山陽道)沿いの、今は商工会議所などが入るビル付近、同26年までは寺家町(じけまち)の総合福祉会館の敷地にありました。駅前区画整理と工場敷地になったからです。2度も移転しましたが、寺家町がもともとの場所になります。会館前には現在「跡地」と記した小さな表示石が玄関前の道路沿いにあります。「鹿児の松」は、寺家町から引越する前の同10年ごろに2代目を切り倒したとき、歌碑を建立したようです。
 歌の作者は、碑面に名前が刻まれているので新宮十郎行家だといわれています。橋本政次著『播磨古歌考』の中でも「古歌集」「松葉名所和歌集」にあると紹介しています。江戸時代に記された『播磨鑑』には「源平盛衰記によると、室山合戦のとき、この松に(十郎行家が)腰を掛けた……」とあるものの、歌までは載っていません。『加古川市誌@』には、補足する形で「腰掛けて歌を詠んだことなどが寺記に伝わっている……」としている反面、『源平盛衰記』などの諸本にはこれらの記述はない、とも市誌は指摘しています。
 宝暦8年(1758)新潟県出雲崎で生れた良寛さんは、幼いころから学問に親しみ22歳で岡山県の玉島・円通寺で仏道修行に励みました。35歳ころには出雲崎へ戻り、以後も何度か通っています。良寛旅日記断簡・紀行「はこの松」の中に同じ和歌が記されているのですが、奈良時代の歌人「大伴家持(やかもち)の作」や「かこ」ではなく「はこ」となっています。メモ書きであったかも知れません。前後がありませんので、どのような経緯で記されたのかは分かりませんが、街道を通る多くの旅人の眼を惹いたのでしょう。
 初代の大きさについて、市誌には「高さ3丈2尺、太さ3丈1尺、東西21間、南北18間」は10mほど南を走る西国街道まで枝を延ばしていた、と紹介しています。鎌倉時代の嘉禄年間(1225〜6)の洪水のときには七堂伽藍(がらん)は流失してしまいましたが、「鹿児の松」と共に本尊や脇立(わきたて)はこずえに引っかかっていました。「鹿児の松」は、『播州名所巡覧図会』や『高砂尾上紀勝余韻』など、江戸時代の数多くの書物に登場しています。当時の松は初代と思われますが、二代目と交替した年代は明確ではありません。
 江戸時代、播磨地域の海岸線は尾上、高砂をはじめ曽根、別府(べふ)の手枕(たまくら)などが、「松の名勝地」として知られていました。今でいう観光パンフレットに「播州松めぐり」などが紹介されましたが、一帯に多く生えていた松も明治以後は松喰い虫などによって枯れてしまいました。新しい松を植えていないところが多いのですが、常住寺も例外ではありません。今後、松を植える予定のようです。
                            20140601 岡田 功(加古川史学会)


鹿児の松の歌碑

常住寺境内の松