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第三十二回 加古川宿界隈を歩くB
第三十三回 加古川宿界隈を歩くC
第三十四回 加古川宿界隈を歩くD
第三十三回:加古川宿界隈を歩く C ―雁南荘―

 加古川町本町は、江戸時代には「加古川宿」であり印南郡(いんなみぐん)加古川村ですが、神社や寺院などの資料に「雁南荘」や「岸南荘」「河南荘」などの文字での荘園名を見かけます。すべて「がんなん(の)しょう」と読むのですが、近世では単なる呼び名にすぎません。
 どこから名付けられたのでしょうか。『印南郡誌』などを調べると、「雁南荘」は加古川町木村の泊(とまり)神社を氏宮とする印南郡内であった「木村・稲屋・友沢・加古川(本町)・船頭(ふなもと)・西河原」(加古川市)と「古新・米田・塩市・今市・中島」(高砂市)の氏子地域と記されていました。ただ、近世前に加古川流路が東方への移動で右岸地域には米田神社などが建立され、木村・稲屋・友沢・加古川・西河原は明治22年2月22日に印南郡から加古郡へと編入しています。
 さらに調べていくと、「雁南荘」の呼び名や記録は中世には見つかりませんでした。同じ地域とされる名称が、『加古川市誌@』や文明19年(1487)の『鶴林寺(かくりんじ)文書』には「印南郡賀南条(かなんじょう)」とあるのに注目しました。地域内には「加古川宿」を記していたからです。
 「条」は条里制ではなく方言の「場所」を意味すると、以前には【城山(じょやま)】で書きました。「雁南」のもとが「賀南条」とすれば、北側がとても気になりました。周辺に同じような方角を示す地名が中世資料などにないかを探していると、日岡神社が総社の加古郡北条郷がありました。日岡山や神社が所在する大野をはじめ、「中津・河原・溝之口・美乃利・平野・福留・篠原町(しのはらまち)」と江戸時代の宿場の一端をなしていた寺家町(じけまち)が含まれる地域となります。
 憶測が許されるなら、【日岡神社の伝説@】で記した南北朝時代の『峯相記(みねあいき)』の記述から、泊神社・日岡神社は古くは同じ地域ではないかと考えられます。両社の氏子が古代の加古川河口三角州内に位置する村々になるからでもあります。
 地域内には日岡神社と関わりがある東神吉町砂部(いさべ)があります。古代の港はどの地域にも属さない土地にありましたから、日岡神社と泊神社は印南・加古郡の中立地域ではなかったでしょうか。遡れば奈良時代の『播磨国風土記』の「六継里」とも考えられ、のちには泊神社は印南郡、日岡神社は加古郡になったのは、北条・南条の地名が名残り、と考えるのは言い過ぎでしょうか。

                             20130228 岡田 功(加古川史学会)



加古川大橋からみた現在の雁南荘と思われる所

鶴林寺