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第三十回 加古川宿界隈を歩く@
第三十一回 加古川宿界隈を歩くA
第三十二回 加古川宿界隈を歩くB
第三十一回:加古川宿界隈を歩く A ―近代の宿場町―

 現在の加古川町(ちょう)本町(ほんまち)は、かつて印南(いんなみ)郡加古川村で、村を中心に西国街道沿いに「加古川宿」が発達しました。主流であった加古川河川が中世の終わりごろには米田町(よねだちょう)船頭(ふなもと)との間へ川筋が変わると、街道が横切る「加古川渡」としての賑わいを見せることになります。
 江戸時代に入り、東隣の加古郡寺家町(じけまち)へと賑わいが広がって「加古川宿」として呼ばれるようになったのは、郡界であった河川が細くなってしまったからです。古代からの宿場の歴史の流れを知りたく「加古川宿年表」を昭和60年ごろに作成したところ、多くの事柄が分かりました。資料などで明治時代以降を中心に追いかけてみたいと思います。
 江戸時代には宿場の一端をなしていた加古川村は、寺家町に加古郡役所が設置された明治12年1月8日の同じ日に「町(まち)制」を実施して加古川町(まち)になりました。同22年2月22日には、川筋の変更に伴い印南郡でも加古川左岸地域になっていた加古川町(まち)をはじめ西河原・友沢・木村・稲屋の各村が地理的な不自然から加古郡へ編入しています。同年4月1日には加古川町(まち)と寺家町、篠原村が合併して加古郡加古川町(ちょう)になりました。
 「町」の読み方について、現在の本町は明治12年から「加古川町(まち)」となっていますが、同22年の三地域合併による「加古川町(ちょう)」があります。当時から区別を分かりやすくするための振り仮名を入れておらず多くの資料で混乱したまま描かれているようです。
 近代に入ると、遠距離の交通手段は徒歩で街道を行き来するのは少なくなりました。自動車やバスの発達と共に、明治21年12月23日には山陽鉄道(現JR山陽本線)が明石―姫路間を開通して篠原村に加古川駅を設置したことでしょう。詳細は【篠原町(しのはらまち)】を参考にして下さい。加古川町(まち)に大きな変化があったのは、何といっても明治31年には日本毛織加古川工場が操業を始めたことでしょう。当初は明石を予定していましたが、明石城が皇室御用邸の候補になったため加古川町(まち)字(あざ)若一ほかの敷地を買収しています。2年後には毛布が製造され、輸送用の引き込み線鉄道敷設や対岸の船頭にも印南工場の操業をするなど、工場が拡張していきました。加古川町(まち)をはじめ周辺に活気をもたらしています。
 加古川町(ちょう)は、神野・野口・平岡・尾上の各村と昭和25年6月15日に合併して加古川市となりました。加古川町(まち)は本町へと変更されますが、江戸時代までの宿場から近代の賑わいへと移り変わっていきました。
                              20130222 岡田 功(加古川史学会)


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