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第二十九回 船頭
第三十回 加古川宿界隈を歩く@
第三十一回 加古川宿界隈を歩くA
第三十回:加古川宿界隈を歩く @ ―宿場町の範囲―

 「加古川宿」のはじまりは、加古川三角州が広がっていた古代にはじまるかもしれません。日岡山の南側に湿地帯や小島があったころのことです。瀬戸内と日本海を結ぶ交通路の要所をなしていた日岡山と共に対岸の東神吉町(ひがしかんきちょう)升田(ますた)には、奈良時代の『播磨国風土記』に「御宅(みやけ)」の存在を記しており【升田】などで詳しく紹介しています。
 三角州の河口や海岸線が南下するのに伴い、日岡神社と深い関わりがある南方の同町砂部(いさべ)に集約されていきました。砂部については、【古(いにしえ)の港】などで記しています。やがて上流からの堆積で港の機能を果たさなくなると、対岸の西国街道(旧山陽道)と交差する「中世の加古川宿」へと受け継がれていくことになります。
 加古川宿には、鎌倉時代の一時期、今の県庁のような役目を果たした「播磨守護所」が本町の称名寺に置かれ、のちには一帯に加古川城が築かれていました。当時の宿場は「印南郡加古川村」だけですが、現在の加古川町本町(ほんまち)と江戸時代はじめの慶安2年(1649)に分離した砂部の対岸になる米田町船頭(ふなもと)、明治10年の加古川町西河原を含む地域になります。宿場の範囲は時代によって少しずつ広がっていきました。
 鎌倉時代末期で元弘2年(1332)の『増鏡』によれば、加古川宿の東方、野口との間に加古郡と印南郡の郡界になっていた本流の加古川が流れていたとの記録があります。やがて湿地帯などが占めていた河原を開墾してできた加古郡寺家町(じけまち)との間を流れるようになったのではないでしょうか。
 中世の終わりごろになれば主流は西方へ移動したと考えられ、船頭が分離する原因になったのでしょう。かつての集落であり、中心は現在の河川の中州だとも言われているからです。江戸時代に入ると郡界になっていた河川は細くなり、対岸の寺家町(じけまち)と共に「加古川宿」と呼ばれるようになります。参勤交代が始まった寛永12年(1635)には本宿になるものの、中心地は加古川村ではなく宝暦2年(1748)寺家町に藩役所が置かれています。
 世の中が安定してくると、宿場や街道を各地から多くの旅人が行きかい賑わったので宿場も東西へ広がって行ったのでしょう。西地域では現在の加古川沿いになる「西宿」や東地域ではJR加古川駅から市役所へ通じる道路と西国街道が交差する付近に「新宿」と呼ばれる通称名が生まれています。
 宿場の歴史を育んできた街の様子や建物、人物、状況などを少しずつ歩いて何回かを紹介したいと思います。             20130213 岡田 功(加古川史学会)



称名寺