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第二十八回 升田
第二十九回 船頭
第三十回 加古川宿界隈を歩く@
第二十九回:船頭 ―加古川市米田町―

 「加古川宿」であり、印南郡加古川村の一部をなしていた加古川右岸の米田町「船頭」は、現行行政地名では「せんどう」と読ませています。今まで何度も登場していますが、必ず「ふなもと」と振り仮名を入れてきましたのには、大きな意味があるからです。
 古くから「ふなもと」と呼び、江戸時代には加古川村(加古川町本町)の対岸に位置する加古川渡しの「船着場」から名付けられていると思っていたところ、昭和46年の新聞記事で「平安時代末期からある千僧(せんぞう)と呼ばれる墓地が、いつのまにか播州弁でゾがドになり、字までが変ってしまった……」と紹介したのです。
 昭和33年度に発行の小学校副読本『わたしたちの加古川』でも「せんどう」のふりがなはあるものの、船着場しか触れられておらず墓地からの語源になるような説明はありません。
 江戸時代の「元禄郷帳」に加古川村の一部であった記載や『加古川市誌@』には「船頭村は向島また船元・船本とも呼ばれて高瀬船の泊場所であったが、慶安2年(1649)堤防修築の結果、土地が開墾されて独立した一村」とあります。「せんどう」と読むには少し無理があるうえ、墓地については1行も触れられていません。
 「ふなもと」がなぜ「せんどう」になったのか分かりません。もし、「船頭」が読みにくいから「せんどう」へ変更され、読み方に対する命名理由が墓地を語源とするような意味が新たに作られたとするならば、地域の歴史を変えてしまうことになります。大変な行過ぎというほかなりません。変更された読み方を戻すのには大変難しいと言われています。
 少しこだわりすぎるかもしれませんが、「ふなもと」と呼ぶことに「船着場」であることに播磨国全体や加古川水系を考えるうえで、大きな歴史の流れの意味を忍ばせているからです。今まで何度も記してきたように当時の対岸であった東神吉町砂部(いさべ)は、古代から中世にかけて播磨の「選ばれた場所」であるのを忘れて欲しくないからです。
 鎌倉時代の一時期には、今でいう県庁のような役目を果たした「播磨守護所」が加古川村に置かれました。加古川流路の移動で江戸時代には本村から分離するものの、西国街道の加古川宿の対岸として加古川渡しが発達していったのです。
 現在は古いたたずまいと新しい住宅地が混ざり合い、かつての港であり船着場の面影などは消えてしまいました。古くからの呼び名を継承してこそ、本来の歴史が後世へと伝わっていくのではないでしょうか。
                       20130313 岡田 功(加古川史学会)




加古川堤防から観た現在の船頭