日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第二十七回 海と川の境界線A
第二十八回 升田
第二十九回 船頭
第二十八回:升田(ますた)―加古川市東神吉町―

 日岡山展望台の西方、加古川を挟んだ対岸に位置する「升田」については、今までに何度も出てきていますがいつごろ名付けられたのでしょうか。
 付近の状況が資料に見えるのは、奈良時代の『播磨国風土記』にある「益気(やけ)里」ではないでしょうか。升田の地名は記されていませんが、里内の「宅(やけ)村」には「御宅(みやけ)」の存在を示しています。税金として納められた米などの品々を管理・保管する倉庫があったところで、全国的にも河川や海岸沿いの重要な位置にあるところから、古代交通を考えるうえで日岡山や日本海とのつながる加古川沿いの要衝に設けられたのでしょう。
 鎌倉時代中ごろに記された『釈日本紀』に印南郡域であるはずの「益気里」が賀古(かこ)郡だと記す文書があるのは、風土記などに見える南隣の六継(むつぎ)里と同じ賀古(かこ)郡との中立地域になっていたのかも知れません。
 先に「みやけ」があり、里名は「み」の発音が消え「やけ」になったともいいます。ただ、「益気」が「升田」へ、どのような経緯で転訛したのでしょうか。井上通泰著『播磨国風土記新考』に、注目すべき内容を紹介しています。同書によると、矢内正夫氏の説を引用して「升田は益気田を略して益田と書けるをマスダと訓み終に升田と書くことなりし……」としており、平安時代中期の和漢辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』高山寺(こうざんじ)本にも「益田<末須太>」とあります。
 「益気」に「田」が加えられたのは、海岸線の南下が大きな原因ではないでしょうか。風土記には御宅に関連して「酒屋村・贄田(にえた)村・館(むつろみ)村」が紹介され、升田の南方の砂部(いさべ)にある「東神吉(ひがしかんき)・砂部遺跡」が跡地とされています。【古(いにしえ)の港】などでも紹介していますが、日岡神社の影響力が強い砂部に施設などが集約されるなかで時代と共に周辺の開墾などから田畑の占める割合が多くなったのでしょう。のちには、「益気田」から「益田」へと略され漢字も現在の形になったと推測されます。升田の総社「益気神社」が所在していますが、『兵庫県神社誌』などでは「やけ」ではなく「ますけ」と読ませています。
 海や川の湿地帯が多くあった加古川河口の三角州は、上流よりの土砂で長い年月をかけて次第に埋まっていき、港の機能を果たしていた砂部も海岸の南下で同じ運命を辿っています。高台ではなく平地を本来の直線で通行できる西国街道になり、加古川河川と交差する対岸の「中世の加古川宿」へと都市機能が受け継がれていったと推測されます。
 古代の「益気里」は中世に入ると、印南(いなみ)荘になり、周辺は「益田村」と呼ばれています。                    
                            20130202 岡田 功(加古川史学会)





升田集落と升田山