日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第二十六回 海と川の境界線@
第二十七回 海と川の境界線A
第二十八回 升田
第二十七回:海と川の境界線 A

 現在の河口はどこになるのでしょうか。地図上では大凡の位置は分かるかもしれません。気になりましたので実際の状況を知りたく、何か痕跡や手掛かりがないものかと左岸沿いへと出かけました。堤防の道路は車輌の往来が激しく、脇とはいえど幅の広い大型車も走りますので、危なく内側の河川敷を南へと向かいました。
 日岡山展望台の北西に位置する、加古川に架かる池尻橋を出発して間もなくでした。道から50mぐらいの河川側へ少し入った土手には細い棒が立っていたのです。赤い文字で「9.2km」とありました。下側を見ると、1m四角の中に大きく白い文字でやはり同じく「9.2K」と書かれてありました。中心部には直径5cmぐらいの表示盤が埋め込まれ、「距離標 9.2K 国土交通省」と刻まれていたのです。河口までの距離ではないかと考え、追いかけることにしました。
 加古川に注ぐ曇川の新旧の樋門などで、道路からの確認は出来ませんでした。日岡山の西方になる位置で先ほどと同じような目印で「8.4k」、続いて「8.2k」を見つけましたので、200mおきに立てられていると気づきました。
 工業用水送水管の、青い色が印象的な昭和55年完成の「水管橋」は、「7.4」と「7.2」の間で、加古川バイパスの新加古川橋北は「6.4」、国道二号線加古川橋北は「5.4」とあり、土手は半円を描くように西へと曲がって行きました。綺麗な状態で立っているものもあれば欠けていたりするものの、200m間隔で目印の石柱がありました。
 加古川南高校の南隣に「加古川市防災センター」があり、道を挟んだ土手には今までの表示とは別に青字で「ここは加古川河口から4.0km」の大きな看板が石柱のそばに掲げられているのが眼に届きました。現在の河口までの距離を表示しているのがやっと分かったのです。さらに追っていくと、同じ石柱と共に看板も200m間隔で立てられていました。
 山陽電車を渡ると泊川が左手に並走、次々と表示される数字が少なくなっていきました。左手に「加古川下流浄化センター」、泊川に架かる「汐風小橋」を過ぎると、「河口から0.0km」と共に「金沢町」の表示がありました。堤防はまだ南方へと続いています。左手の南側には埋立地に建つ工場群がありますが、現在の時点での河口になるのでしょう。石柱には「建」以外の字が削られており、かつての「建設省」であるかも知れません。
 土手の表示を確認しながら河口まで歩いていく中で、古代の港・東神吉町砂部周辺が6km、中世ごろの加古川町稲屋付近が3kmとなるのが分かりました。奈良から平安時代ごろとすると、6km南下したことになりますが、1千年後には海岸線であり、河口はどのような位置になっているのでしょう。          
                                                            20120915 岡田 功(加古川史学会)


池尻橋近くの距離標