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第二十二回 古の港@
第二十三回 古の港A
第二十四回 古の港B
第二十三回:古(いにしえ)の港A

 「砂部(いさべ)」の存在に気付いたのは、加古・印南両郡内の中世地名を調べる過程でどの荘園に属するのかを確認していたときでした。当時の荘域が比較的残っているものに神社の氏子組織があるのを知り検討したのですが、93年刊行の『加古郡・印南郡の荘園と五箇荘の範囲』に発表していますが、ここでは詳細は省きます。
 『兵庫県神社誌』などで氏子関係の史料を探求するうち『姫路市史』史料編近世では砂部について、「中道ヨリ東ハ平ノ庄 西ハ神吉(かんき)ノ庄・本平津ノ庄」とありました。現在の氏子状況とは少し異なっているかもしれませんが、整理をすると平は平之荘神社で印南(いなみ)荘、神吉は八幡神社で志方荘を含む大国荘、平津は生石(おおしこ)神社で伊保荘を含む魚崎荘に属して、対岸には賀古荘や少し離れて加古郡と明石郡に広がる住吉大社領の、五つの荘園が砂部を中心に集まっているのが分かりました。五箇荘で砂部が中立的な船着場だと考えられるのです。
 よく似た状況が、88年3月8日付の神戸新聞(夕刊)に「国境を行く」と題した連載でアフリカ南部の国境の様子を紹介した記事が掲載されていました。「選ばれた地点がカズングラである。ザンベジの流れが北のザンビアと南のジンバブエ、ボツワナ、ナミビア三国との国境を形成するが、南の三カ国は極めて不自然な人為的な国境線で領域をカズングラに延ばしている。ひとえにカズングラの地にザンベジ川を利用する水運の船着場を確保したいがための……カズングラの地で4カ国が接する珍しい<国境点>はこうして出来上がった。同地から西方200kmにはアンゴラ国境も迫り、合わせて五カ国の近接点」と見えていました。
 砂部周辺の地形については『加古川市史』第5巻附録の「正保(1644〜47)播磨国絵図」によると、加古川本流が升田(ますた)山付近で2本に分かれ、1本が東神吉町升田から砂部の東沿いを南流しています。注目すべきなのが河川を挟み対岸には米田町船頭(ふなもと)が所在していることでしょう。江戸時代初期までは加古川宿(村)の一部であり、鎌倉時代には今でいう県庁の役目を果たした「播磨守護所」が加古川城跡であり現在の称名寺には置かれ、五箇荘が守護の経済基盤になっていたのです。
 平安時代末期の治承4年(1180)には、平清盛は平家の領地であった「播磨国印南野(いなみの)」へ都を移そうとしました。印南野とは五箇荘のことです。清盛は海外貿易の拠点になる港を探して、砂部周辺への大型船の入港を考えていましたが実現しませんでした。加古川より運ばれてくる土砂で湾内は埋まっていたと思われ、港の機能は果たさなかったのが原因だからです。
                            20120408 岡田 功(加古川史学会)


神吉八幡神社

神吉八幡神社から望む砂部付近