日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第二十三回 古の港A
第二十四回 古の港B
第二十五回 天空への階段
第二十四回:古(いにしえ)の港B

 砂部(いさべ)周辺の港はいつごろに出来たのでしょう。奈良時代の『播磨国風土記』の比定地を見直していて、原型が記されているのではないかと気付いたのです。
 現在の東神吉町升田(ひがしかんきちょうますた)周辺は、益気(やけ)里といい、対岸の日岡山、さらには印南野(いなみの)台地の裾野を東へ行くと、奈良時代の賀古の駅(かこのうまや)へと辿り着きます。西への西神吉町岸とを結ぶ古くからの陸上交通路として知られる要所地にあります。この益気里にある御宅(みやけ・屯倉)が重要な位置を示しているのではないでしょうか。
 風土記の里域を調べたところ、升田の御宅を中心に8里が河川を通じて取り巻いていると思えてくるのです。中心になるのは砂部が位置する「六継里(村)」ではないかとされるのは、中立地域の駅家(うまや)里と共に残りの6里とつながっている意味を含んでいるからです。里内には高宮、酒屋、贄殿(にえどの)、館の各村を記載していますが、御宅に関連する建物や従事する人々の住まいなどではないでしょうか。跡地が「砂部遺跡」と考えられるからです。【日岡山古墳群A】でも紹介しているように、船で海外から持ち込まれたとされる、朝鮮半島伽耶地方の作風を持つ須恵器も出土しているからです。
 07年9月16日付の朝日新聞に連載の「はりま遺跡探訪」のなかで、日岡山北方の神野町にある「行者塚古墳」が紹介されています。同古墳の副葬品について、「4世紀末〜5世紀初めという時期に貴重だった中国・朝鮮の品々を入手できた行者塚の主は、どんな人物…おそらく加古川下流の<鹿子水門(かこのみなと)>という港を掌握し瀬戸内海水運にもかかわった有力首長…」と記述されています。
 屯倉は稲穀を収納する倉庫ですが、河川や湖沼、海岸などに立地している場合が多いことです。注目すべきは升田の御宅が古代陸上交通の要所地にあり、水路を通じてつながっている砂部には物資を運ぶ港があります。地名の起こりなどから推測すると、地域を掌握する人物は日岡山や神社と深い関わりがあったと考えられるのです。
 以上のように見ると、日岡山から神野一帯に大きな古墳を造ったり、日岡神社の伝説、鹿子水門、風土記の「印南之大津江(いなみのおおつえ)」のころから平安時代ごろまでは、砂部周辺が河口であり港としての機能を果たしていました。ただ、平清盛が都を移そうとしたころには、小型はともかく大きな船は入港できない状態であったのでしょう。中世後半には終焉を迎えており、中世の加古川宿からさらに南へと海岸線が移り、加古川本流の西への移動と共に、「大津千軒」と呼ばれた加古川町稲屋(いなや)付近から近世には高砂へと受け継がれていくのです。
                             20120415 岡田 功(加古川史学会)



出河原から井ノ口方面を望む