日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第二十一回 もう一つの展望台
第二十二回 古の港@
第二十三回 古の港A
第二十二回:古(いにしえ)の港@

 今までに【鹿児(かこ)】【曇川(くもりがわ)の流れに】などで、東神吉町砂部(ひがしかんきちょういさべ)付近に古代の港が存在したと紹介しました。【日岡神社の伝説】では江戸時代の『播磨鑑』によると、日岡神社の祭神「天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと)」が砂部の地名の起こりとも記しています。
 日岡山展望台の西側を流れる加古川右岸沿いの砂部は南北に細長く、北部を加古川バイパス、南部をJR山陽本線が東西に通過しています。戦国時代の『慶長播磨国絵図』(1596〜1615)には「伊佐江」とあり、礒部とも書いたようです。河口から6km余りも上流にありますから港としての名残もなく、結び付きには少し違和感があるのかもしれません。
 周辺の状況について少し触れたいと思います。古くは日岡山と対岸の升田(ますた)山から南側の湾内には三角州が広がり、海や湿地帯が続いていました。やがて、加古川本流から両岸域に分流して出来た小さな河川が氾濫のたびに流路を変え、上流より押し流されて来る土砂でところどころに陸地化が進み海岸線が南下しました。
 史料には、延暦8年(789)の『続日本書紀』に「水児船瀬(かこのふなせ)」を記していますが、日岡山から西方2km余りの西神吉町大国の小字名「船ケ瀬」ではないかと推定されています。『日本書紀』応神13年の「鹿子水門(かこのみなと)」については、砂部より南方2km余りの加古川町稲屋(いなや)といわれています。かつて「大津千軒」と呼ばれた土地であり、同地の福田(ふくでん)寺が「大津山」であったからですが、古代の地形から考えると不自然な位置になってきます。
 「船瀬・水門」はとても重要でした。背景には日本一低い分水嶺の「加古川」を利用して船の行き来があったことでしょう。現在よりも水位が高かったころには、日本海と瀬戸内海とを結ぶ交通路になっていたからです。大陸より朝廷の大和国(奈良県)や京の都への近道になるからでした。
 港は中立的な河口にありましたが、海岸線が問題になってきます。小字名の「船ケ瀬」がある大国の位置を考えたら、古代には沖積台地の裾野、右岸では升田(東神吉町)ー大国―岸(西神吉町)、左岸では日岡山から印南野台地西端になります。中世には加古川宿あたりまで進むものの、湿地帯や陸地が入乱れての状況であったでしょう。
 現在のようにコンクリートで固めた河岸ではないから、同じ場所で長期間続いているのではありません。湾内の各地へ点々と移動する中で、当時の中心的な役割を果たしたのが砂部周辺ですが、どの時代かを検証しなければなりません。
                       20120401 岡田 功(加古川史学会)



日岡山から見た砂部