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第十六回 旅人たちの目じるしA
第十七回 旅人たちの目じるしB
第十八回 日岡山神社の伝説@
第十七回:旅人たちの目じるし B

 「待ったーー」
若い女性が、笑顔を振りまきながら小走りに駆け寄る姿がありました。
 JR加古川駅の南側を出ると、ほとんどが南方か東方へ向かわれる中で西方には送迎用の一画があるからでしょうか、高さ1mぐらいで四角柱石の道標を目印に待ち合わせをしていたのです。
 今回は、今まで2回の日岡山の道標とは少し異なっています。深彫りで刻まれている内容は「東 明石駅迄5里14丁」「西 姫路駅4里25丁」と目的地の方向を示しており、あまり変わりはないようですが、それぞれに「駅」を付けていることでしょう。
 『加古川市の文化財』によれば、明治21年12月23日には山陽鉄道(JR山陽本線)が明石―姫路間を開通して、加古川駅が設置されたとき建立された、とあります。残念ながら元々どこにあったのかは不明とも見えていますが、駅から近い場所にあったといいます。なお、加古川駅に関しては【篠原町(しのはらまち)】で詳細を記しています。
 道標には距離も彫られていますから「1里」を3.9q、「1丁」は109mとして計算をしてみました。明石駅は約21km、姫路駅には約18.3kmでした。駅間ですから『時刻表』で確認してみると、明石駅へは19.7km、姫路駅は15.7kmと記してありました。「里」と「km」ですから多少の誤差があるのかもしれません。
 ただ、どうして大きく違うのでしょう。理由を考えた場合、道標に刻む「南 西国街道 播磨国」がとても気になりました。表示の街道ではないかと思い、実際に調べてみようと西国街道(旧山陽道)のほぼ同じ経路を歩いてみたのでした。するとどうでしょう、姫路駅までは約18km、明石駅は約21kmになったのです。
 道標には「明石駅・姫路駅」の行き先を刻みながらも、鉄道での駅間の距離数ではなく西国街道の距離を示していたのです。原因は当時の移動の手段ではないでしょうか。明治時代になって、鉄道での時代へと進みながら、まだ街道を利用する人が多かったのではないかと考えられます。そこで、両方が役立つように表示されたのかも知れません。「旅人の目じるし」という道標の役目を果たしながらも里程標の意味を持つ石碑であったといえます。
 道標が建立されて100年以上が経ちます。駅前は大きく変貌しました。高架工事などを含め何度かの移動で現在の場所に落ちついていますが、人々の暮らしと共に周辺の状況をこれからもじっと見守っていくでしょう。
                           20111010 岡田 功(加古川史学会)