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第十八回 日岡山神社の伝説@
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第十八回:日岡神社の伝説 @

 日岡山展望台を降りると何ヵ所かの下山する順路があります。周辺に木々が生い茂る中で西方を選び、少し歩けば「摺(比礼・ひれ)墓」と呼ばれる印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の御陵へと出てきます。前を横切り丸石を敷き詰めた階段を下ると、やがて左手には常楽寺、突き進めば日岡神社の本殿横に出て来ます。
 今回、紹介する「日岡神社の伝説」は、南北朝時代に成立の『峯相記(みねあいき)』に掲載されています。奈良時代の『播磨国風土記』と並ぶ播磨を知るうえでの貴重な中世史料で、姫路市の峰相山鶏足(けいそく)寺の老僧が著したものです。日岡神社が一時期に呼ばれた「日向(ひゅうが)大明神」などの項では次のような伝説が見えています。
 「――生石子(生石・おうしこ)と高御倉(高御位・たかみくら)は陰と陽の二神として夫婦の(姿で)現れなさいました。養老(717〜723)年中に彼国より石舟に乗って、顔立ちの美しい女性の待女を多く引き連れて、賀古浦へいらっしゃいました。そこで、高御倉(の神)が、考え付きなさって(日向大明神が)行き来なさるのを、生石子大明神のご嫉妬に配慮して川の向こう岸(東岸)に場所を決めて、おとどまりいただきました。待女は泊大明神にとどまったなどがこれです。(高御倉・日向)の起源、由来についてはおそれつつしむことが多い上に、いろいろの説があるので略します――」(西川卓男著 口語訳『峯相記』より)
 お話ですから歴史的な事実ではありません。ただ、見る方向を変えればいくらかの史実につながって行くのではないかと思われます。例えば、加古川市の右岸域と高砂市区域の旧印南(いなみ)郡は男神の高御倉と女神の生石子が、加古川市の左岸域と稲美町・播磨町区域の旧賀古郡を日向大明神は何らかの形でかかわっていたのではないでしょうか。
 「彼国」は、日向大明神の名称から日向国(宮崎県)から来たとの説がありますが、「石舟」の存在が気になりました。木製ではないものが使用されているとすれば、当時高い技術を持っていたであろう、日本ではない土地を想像できます。
 待女が加古川町木村の「泊大明神」に留まったことや日岡神社の祭神に「天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと)が見えていることででしょう。江戸時代の『播磨鑑』には東神吉(ひがしかんき)町の砂部(いさべ)の地名のもとになったとも記されていることです。以前【鹿児(かこ)】で砂部周辺に古代の港があったと述べているように、日岡神社は港との結び付きがあり、強い力を持っていたのではないかともとらえられるからです。
 歴史的な裏付けはまだまだ不十分です。今後は、伝説の裏に隠された事柄を少しでも謎解きしていかなければならいと思っています。
                                                        20111111 岡田 功(加古川史学会)


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