日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第十五回 旅人たちの目じるし@
第十六回 旅人たちの目じるしA
第十七回 旅人たちの目じるしB
第十六回:旅人たちの目じるし A

 「おーい、船が出るぞ……」
 大きな呼び声が今にも遠くから聞こえてきそうな高さ80cmぐらいの道標が、JR加古川線日岡駅と県道加古川・小野線を結ぶ細い旧道沿いにひっそりと建っています。前回の墓地前の文政10年(1827)から四十年後の明治2年に建てられているのですが、同じく西国三十三カ所巡りを終えた近隣に住む北在家、中津、大野の12人が願主、と彫ってあります。
 北面に刻む北西への「法華山ほう条」は、現在の加西市になり加古川右岸なので川を横切らなくてはなりません。今ならば少し北へ行くと池尻橋がありますが、当時は架っていませんから渡し船を用いていました。大野と対岸の池尻との間を行き来する「大野渡し」がありました。高い堤防もなく、道標の近くまで来ると長閑な風景の中で冒頭のような言葉が遠方から聞こえたかも知れません。渡し場を偲ぶものは道標だけになったようです。
 「ほう条」は北条鉄道の終点、駅前一帯には江戸時代の街並みが残っています。法華山は市の南端に位置する西国三十三ヵ所26番霊場として知られる法華山一乗寺になります。日岡神社のすぐ南の旧道角にも「ほ津け山(法華山)王多し(渡し)」と自然石に刻まれた高さ40pぐらいの道標がありましたが、どこかへ消えてしまったようです。各地の寺社へ参る人々の目印でもあったのですが、忘れられてしまったのかとても残念でなりません。
 同じ北方でも「三木ありま」は、加古川左岸で東方向になります。三木や有馬へは、有馬街道の交差点になる国包(くにかね)を経由して有馬温泉へと通じているから「湯之山街道」とも呼ばれています。さらに京の都へも向かうことができます。西方では姫路で西国街道とつながっていることから「裏西国」とも呼ぶ重要な街道でありました。
 近代になると表示が変化したのでしょうか。「京」「大坂」ではなく「南 明石兵庫」が見えています。兵庫は現在の神戸のことです。「日向社加古新田」は東の方向になりますが、「日向社」はすぐ近くの日岡神社、「加古新田」は東方でも少し離れている稲美町方面を指しています。
 大きな道標は比較的に保存されやすいのですが、崩して読めない字体などが刻まれていると、無関心な方にとっては用途が分からないなどが原因になるのでしょうか。道路拡張をしたときなどには、壊されたりどこかへ持ち去られたりしています。
 旅の安全を願う気持ちからなのでしょう、仏さんが彫られているのがあります。野ざらしではなく小さな祠(ほこら)に安置して祀(まつ)られ、花などを手向け大事にされているのを見かけたりします。
                                        20110727 岡田 功(加古川史学会)