日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第十四回 養老
第十五回 旅人たちの目じるし@
第十六回 旅人たちの目じるしA
第十五回:旅人たちの目じるし @

 日岡山の南すそに広がる公園に続き、道路をはさんで南側には墓地が見えます。その北西角に高さが80cmぐらいの四角の石柱があり、「右 大野御みや道、左 高砂加古川道」と大きな文字が刻まれているのが窺えます。「道標」と書いて、「どうひょう」「みちしるべ」と読んでいます。
 見知らぬ土地の交差点に差し掛かると、どの方向へ行けばよいのか迷いそうになったり、分からなくなったりします。そんなとき、自分が向かおうとする地名が標識で確認できると安心して進むことができます。現在の標識が立てられるころまでは通行人に対して重要な案内をする役目を果たしていました。
 「右 大野御みや道」とは右へ行けば大野集落や西の山すそに鎮座する日岡神社のお宮さん、「左 高砂加古川道」は高砂や加古川の街へそれぞれ赴くことができることを指しています。ほかにも各面に地名が彫ってあります。「すぐ北在家道」は、少し南方へ歩くと竹藪の中に入っていきます。【日岡山古墳群@】で紹介の三角縁三神三獣(さんかくぶちさんしんさんじゅう)鏡が出土している「勅使塚(ちょくしづか)」を過ぎて新井(しんゆ)疎水を渡り、刀田山鶴林寺(とたさんかくりんじ)や尾上神社、「すぐ加古新田道」は現在の稲美町方面へそれぞれ行くことができます。
 「すぐ国加ね三木道」の「国加ね」は、本来の「国包(くにかね)」と刻まなければならないのですが、近隣以外の人には難読地名ですから読み方を重視したのでしょう。国包は裏西国街道ともいわれる有馬道(湯之山街道)沿いにあり、西方の姫路や東方の三木、有馬から京の都を結ぶ重要な交差点でもあります。それぞれの地名の前書きに「すぐ」と表示されていますが、「近く」の意味ではありません。この方向には距離に関係なく真っ直ぐ行けば良い、ということです。
 「文政10年(1827)春三月」に願主が「大野邑(村)」の人で石工(いしく)は「伊兵衛」、「西国同行中」などが刻まれています。当時の旅をする環境は、現在のような電車や自動車ではなくほとんどが徒歩でした。遠くへ旅するのは一生に一度あるかないかの、もう二度と故郷の土を踏めない場合もあったからです。それだけに、「西国同行中」とあるのは、長い月日をかけて巡ってきた西国三十三ヵ所を無事に戻れた思いからお礼の意味で建立したのでしょう。
 かつて墓地周辺は淋しい土地でしたが、今は自動車がひっきりなしに走る広幅となって情景が大きく変わってしまいました。
                           20110722 岡田 功(加古川史学会)