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第十四回 養老
第十五回 旅人たちの目じるし@
第十四回:養老(ようろう)―加古川市平荘町―

 明治時代はじめのことです。周辺の小さな村々の合併が行われ、新しい地名が名付けられました。前回は土地とは関係がないものの、住民が未来に願いを込めた【美乃利(みのり)】を紹介しました。
 日岡山の北西、加古川右岸沿いに位置する「養老」も、『印南郡誌』などから同じような経緯で命名されたと思われます。【曇川(くもりがわ)の流れにA】で菅原道真の乳母・きくが住んでいた話を紹介しています。その屋敷跡地に建立された芝天満宮がある川沿いの「芝村」、西側で県道神戸・加古川・姫路線と県道高砂・加古川・加西線が交差する付近の「中村」が一緒になるにあたり、新しい呼び名を付けることになりました。
 最近でも、「平成の大合併」が全国各地で実施されました。複数の地域が一緒になるとき新しい地名が期限までに決められず、迷走劇の末ご破算になってしまった市町もあります。単なる名称だけではなく枠組みや利害関係など、いろいろな意見が出たかも知れません。
 この二つの村のどちらかが大きければ「編入」という形がとれたのでしょうが、両方とも北隣で同町山角(やまかど)の報恩寺(ほうおんじ)に残る、室町時代後期で天文元年(1532)の文書に記されている由緒ある土地であっため容易に決められなかったようです。
 両村の代表だけなのか、有志を含んでいるのか、出席者が多かったのかは分かりません。何度か話し合っても結論が出なかったのでしょう。議論百出で刻々と時間が過ぎるばかりであったのかも知れません。そんなとき、ある意見が出たのです。
 片方の呼び名の継承ではなく、両村の「和」を望まれたのでしょう。古くから住まわれている家柄の「瀧さん」の苗字から考えた、今でいう「連想ゲーム」のような案でした。元号(717〜724)のもとになった岐阜県の「養老の瀧」から、「養老村」と命名されるに至ったのです。
 明治10年12月に発足、と郡誌には記載されているので、100年以上も経つことになります。もう、いきさつが忘れ去られてしまったのでしょうか。一部の「郷土史家」といわれる人々の間では地域の歴史を確認しないまま、漢字の印象から語源をもっともらしく説明しておられるのには困ったものです。
 明治時代の多くは、村名を決めるにあたって村人が悩み考えあぐねたうえ、両村に関係があるものや土地に願いを込めるなどをしています。しかし、近年は外国かと思われるような片仮名地名や由緒ある地名を継承するでもなく、住民を無視した命名が見受けられ、とても残念な気がします。           
                            20110523 岡田 功(加古川史学会)


養老天満宮の宝篋印塔

宝篋印塔の説明


現在の養老