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第十三回:篠原町(しのはらまち)―加古川市加古川町―

 JR山陽本線であり、加古川線の基点にもなる加古川駅の所在地名「篠原町」を紹介します。現行行政地名は「しのはらちょう」と読ませています。なぜ、表記を「まち」としたのかが今回の大きな要点ではないかと思います。篠原町が最初に見える史料は、室町時代の終わりごろで永正12年(1515)の『鶴林寺文書』には「篠原村」とあります。古くは加古川三角州の中での湿地帯を占める割合が多い地域なので、命名されたのではないでしょうか。
 周辺に大きな変化が起きたのは、近代の明治21年12月23日に山陽鉄道(現JR山陽本線)が明石―姫路間を開通したことでしょう。現在の山陽新幹線付近を通る予定でしたが、篠原村が加古川駅を誘致したといわれています。大正2年には加古川沿いを北上する播州鉄道(現JR加古川線)が現在の厄神(やくじん)駅まで、同3年にはのちの国鉄高砂線(昭和60年廃止)が走っています。江戸時代の西国街道から、鉄道で移動する流れに移り変わろうとしていました。駅を中心とする道路網の整備に伴う、自動車・バスの発着、通行人相手の商店などが増えたのです。
 今まで静かであった地域が賑やかになり、「むら」ではない「まち」の様相になってきたので、呼び名を変更する動きになったのでしょう。明治22年4月1日に3地域で加古川町(ちょう)を編成しましたが、本町(ほんまち)の前身・加古川村は明治12年に町(まち)制へ移行して「加古川町(まち)」、寺家町(じけまち)は江戸時代から呼ばれています。篠原村も二つの地域に劣らない状況になってきたからでしょう。村ではない「まち」と呼ぶことに大きな意味があったので、2町に習い大正5年2月21日には「篠原町(まち)」へと改称したのです。
 残念ながら、のちに出される書類や書籍には振り仮名が打たれていなかったからでしょうか、地名表記がコンピューター化される中で「まち」ではなく「ちょう」と読まれてしまったようです。先人の想いも空しく、「町」の読み方が変更されただけではなく、今後は地名が消滅する可能性も出てきました。
 山陽本線・加古川線の加古川駅周辺の高架に伴い、駅北部を中心に区画整理が行われています。市の玄関口である「顔」ですから仕方がないのかもしれません。ただ、どこにでもありそうな「駅前北町」などの地名に変更されそうな状況のうえ、住居表示が「○番○号」になると「歴史の証言者」である小字名(こあざめい)も消滅してしまいます。
 明治のはじめ、篠原村の人々が駅を誘致したからこそ、今日の賑わいがあるのを忘れてはならないと思うのです。
                                                 20110531 岡田 功(加古川史学会)


篠原観音寺

篠原北向地蔵尊