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第十一回 西之山
第十二回 美乃利
第十三回 篠原町
第十二回:美乃利(みのり)―加古川市加古川町―

 JR加古川駅の北東、徒歩15分ぐらいに「美乃利」があります。日岡山からでも南方を東西に走る加古川バイパスで集落をほぼ二分しているのが窺えます。語呂の良い呼び名ですが、明治時代のはじめに間形(まがた)村と大野新村が一緒になるときに名付けられました。今は田畑より住宅地の占める割合が大きく、通勤に便利な土地ですから当時の風景は想像もつかないでしょう。明治時代の地図を見ると、田園地帯が拡がる中に集落がポツリとありますので、稲の「実り」が良くなるように願いが込められた意味がよく解ります。
 バイパス北側の大野新村は、古くから住んでおられる方の間では「しむら」とも呼ばれています。日岡山南すそに広がる本村の「大野村」から江戸時代の明暦2年(1656)に分離しました。この年には、今里伝兵衛(いまざとでんべえ)によって加古川左岸から取水して新村の東部を流れ加古郡播磨町古宮の大池までの「新井(しんゆ)疎水」が完成しています。水路が、村の誕生のきっかけになったともいわれています。
 南側の間形村については、寛延元年(1748)の村方文書に記されています。江戸時代の中ごろまで一軒もなく、元文1、2年(1736〜37)領主によって土地が取り上げられ、地主を何度か変更しました。石高分の米の生産ができていなかったからです。年貢率は6割6分から、寛保2年(1742)には5割6分まで下げましたが向上しません。延享3年(1746)には率を3割まで下げて西隣の溝之口村から独立を申請しましたところ認められたのです。そして、元文〜延享(1736〜48)ごろに住みはじめたのではないかとされています。
 減免が叶ったのは珍しいといえます。領主・松平大和守(明矩・あきのり)は強引な年貢の取り立てをしていたことや当時は旱魃(かんばつ)と暴雨風が重なっていた時期でもありました。やがて、姫路全藩では一揆(いっき)が起こっていく過程のなかでの「減免」であったからです。村人は知っていたからこそ、寛延元年(1748)に急死した領主に対して「村中で命日には位牌(いはい)を拝む」とあるのです。間形集会所近くの一画には、「大和大明神」と刻まれた石碑が建立されていますが、恩恵を後生へ伝えようとしたのでしょう。
 長い間、印南野(いなみの)台地西端で集落の北東へと流れ込む白ヶ池(しらがいけ)川や加古川などの氾濫の影響で荒地が続いていました。江戸時代に入り河川の整備や疎水が充実するなかで、耕作面積が増えていったのでしょう。ただ、地名に未来を込めて名付けられた「美乃利」にもかかわらず、稲穂が垂れる田圃ではなく住宅が拡がる地域になるとは誰が予測したでしょう。          
                             20110403 岡田 功(加古川史学会)


住宅に囲まれた水田

「大和大明神」の石碑