日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第十回 曇川の流れにA
第十一回 西之山
第十二回 美乃利
第十一回:西之山(にしのやま)―加古川市神野(かんの)町―

 日岡山の東ふもとに眼を向けて下さい。加古川スポーツセンターの体育館やプールが窺えます。住宅街の中の、市の史跡指定を受けている「北大塚古墳」は、古墳時代中期の前方後円墳のうちでも後円部のみが残るものです。付近は現在、行政上では「神野町日岡苑(ひおかえん)」と呼ばれていますが、昭和48年11月に「西之山」の南西部が宅地開発したのに伴って分離した地名でもあります。
 もともと同地域になる「西之山」は「西」の方向を示す漢字が用いられていますから、中心になる土地を探さなければなりません。周辺の地図を確認すると西之山の東隣に、「石守(いしもり)」になるのがよく解ります。石守の本村と西之山集落との間にある地域を石守の中でも「中村」と呼ばれる通称名が残っていることでしょう。もともと石守と西之山は一つの地域であったからです。
 「西之山」の成立はいつごろになるのでしょう。江戸時代の正保3年(1645)の『正保郷帳』には「古(いにしえ)ハ石守村」とあり、『石守史誌』には寛永年間(1624〜44)に分村と記載しています。しかし、『慶長播磨国絵図』(1596〜1615)には早くも「西(之)山村」が見えているのです。
 「西之山」は、加古川左岸に注ぐ曇川(くもりがわ)河口付近に位置しています。古代には海水が今より少し上昇していましたから、かなり上流(奥地)まで入り組んでいたようです。現在のような高い堤防がない時代です。河口付近は、加古川や曇川の氾濫地帯で一帯は湿地帯が拡がっていたと思われます。やがて、水位が低下するなかで、長い年月をかけて苦労しながら田畑へと開墾したのでしょう。中世ごろになると、人々は洪水の押し寄せない日岡山の北や東ふもとの段丘上に、屋敷を構えるようになるのです。そして、年を追うごとに耕作面積が広がり、人口も増加したのです。
 中世の終わりごろには、本村から見て西方の丘陵地に家々が建ちましましたから、人々の間では「西の山の集落」といわれていたのでしょう。のちには1村として独立するときに、そのまま使われたと考えられます。書類上と人々との間での認識には少し差があり、年月につじつまがあわないのも不思議ではないのです。
 各地では、「東・西・南・北」などが付いた地名がたくさん残っています。現在なら都市部とのつながりがあるような命名がなされています。ただ、古代から明治の初めにかけての多くは、詳細な歴史を辿ってみると、分村など意外な交流が分かるかもしれません。
                       20110331 岡田 功(加古川史学会)



曇川からみた現在の西之山