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第九回 曇川の流れに@
第十回 曇川の流れにA
第十一回 西之山
第十回:曇川(くもりがわ)の流れに A

 奈良時代の『播磨国風土記』に記す賀意理多之谷(かおりだのたに)が転訛したとされる曇川を、約200年後には菅原道真が通過しています。直接の伝承は残っていませんから、周辺に残る話を辿って繋いでいくと風土記の記述とは逆方向の順路と一致してくるのです。
 平安時代中期の昌泰4年(901)、寒門に生まれながら大臣にまでなった道真をねたむ人々が九州・大宰府へ追放しました。京から左遷される道中で播磨地域を通っていますから、各地で伝説が幾つも残っています。
 2月1日に京の都を出発、明石駅(あかしのうまや)を過ぎて明石市二見(ふたみ)町東二見の「仮寝の岡」で休まれ君貢(きみつぎ)神社へと参り1泊して九州に向かった――。加古郡稲美町国安の「天満神社」は梅を見るために二見から上陸――。加古川市平荘(へいそう)町養老の「芝の天神さん」には道真の乳母が住み、80歳なる「きく」は歌を詠むのに優れていたといわれています。加古川を上って来て同じ川を利用して九州へ行った――などです。
 これら三ヵ所を結びつけると意外な内容がわかってきます。まず、二見は明石郡と賀古郡の境界付近の瀬戸川河口です。1泊して梅を観賞するため、川を上り天満神社へ向かったことになります。同神社には「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌碑が昭和52年に建立されていますが、道真は神社の南方に位置する同町六分一(ろくぶいち)のお旅地蔵が建つ「お旅所」で休まれていることでしょう。
 お旅所の小字名「舟引」周辺は、風土記の「舟引原(ふなびきはら)」になることは前回に記しています。ただ、「左遷」という名の、罪人として護送される道真のわがままを聞き、海路や古代山陽道なる近道を避けて観梅のためにわざわざ遠回りを選んだのでしょうか。
 当時、屋敷に働きに来ていた重助が、郷里の岡(加古郡稲美町)に帰っていたのを思い出して立ち寄り、岡の南隣に位置する「船引」で再会を果たしています。そのあと、二見へ戻ったのではなく曇川の下流、西方へ向ったのではないでしょうか。河口は加古川左岸に注いでいますが、対岸の右岸には道真の乳母が住んでいた跡に建てられた「芝の天神さん」があるからです。
 梅の季節でありますから、長い道中で偶然に咲く眺めの良い場所で休憩や宿泊があったかもしれません。しかし、もう二度と会えない二人に別れを言いたく、当時使われていた遠回りの順路を役人は許したのでしょう。「梅を観るため」という話は時期的にあいますから、道真を祀る信仰が全国に広がる過程で作られたと考えられます。
                       20110131 岡田 功(加古川史学会)


神野町西之山地区を流れる曇川
このあたりを新井疎水がサイフォンの原理を利用して曇川の下を通っています

芝の天神さん