イオはあまり、紋章に詳しくない。
彼はその腕っ節だけで、敵であろうと味方であろうと叩きのめしてきた。彼の武術センスは天与のもので、それを鍛錬を重ねて磨き上げたことによって、さらに力をつけた。
彼と一方的でない試合ができた者は、解放軍にさえ数えるほどしか存在しなかった。紋章によって不老にならなければ、順調に成長して恵まれた体格を得、ルカ・ブライトにさえ一対一で張り合えるほどの強者になったかもしれない。それほどまでに彼は強かった。
よってイオは、解放軍に参加するまで、紋章の必要性を感じたことがなかった。攻撃魔法を使うより物理攻撃を加えるほうが、より簡単で効果的だったし、攻撃を受ける前に相手を倒すことができたので、治癒魔法を使う必要もなかった――もっともたまに怪我をしても、治癒魔法と相性が悪かったイオは、自然の治癒力に任せていたのだが。
解放戦争中にしても、魔法兵団の運用に関しては、必要なことをできるかできないかだけを尋ねて作戦を立てていた。ルックからの進言によって作戦を変更することはあったが、その際にも細かいことはすべて、ルックと軍師に押しつけた。
そのため彼は、紋章に関してまったくの素人に近かった。
その素人を生徒に迎えて、室内はにわかに、ルック先生の魔法講座の体を様してきた。ルックは偉そうに腕と足を組んで木箱に腰かけ、イオは壁に背を預けあぐらをかいたまま、しかしどこかかしこまった様子で、素直に彼の言うことに耳を傾けている。
「たぶん、水――いや、水と風の複合魔法かな。断言はできないけど」
「……根拠は?」
ルックを信用していないわけではないが、イオは、とりあえずそう尋ねた。するとルックは、反抗的な生徒に言い聞かせるように、ことさらにゆっくりと発音した。
「このあたりは水の紋章の気配が濃すぎる。はじめは君が水の紋章を宿してるからかと思ってたけど……この建物の近くに来たとき、水の気配がさらに強くなったんだよ。だから少なくとも、この近辺に水の紋章が集められているのは間違いない」
「じゃ、肌寒いのはそのせいか?」
「一因ではあるかもしれない」
「ふうん」
ルックが言うならそうなのだろうと納得して、イオはさっさと話を先へ進めた。
「で、具体的にどういう技術を使ってるかとかは、……ああ」
言う途中で思い当たる。
「そう言えば、おまえ、転移が使えないんだったか。魔法紋章を封じるんなら、<静かなる湖>の発展か?」
「たぶんそうだろうね」
ルックがあっさり頷いたので、イオは拍子抜けした。いつもならここで、簡単に断定するなシナプス直線単細胞、などの、あっさりした、それでいて破壊力の高い口撃が返ってくるのだ。
不気味に思いながら、イオは次の質問を探して、恐る恐る口にした。
「しかし、ハルモニアっつったら騎兵隊と紋章部隊だろ、主戦力は。今のところハルモニア以上に紋章扱えるところはないんだから、紋章封じなんて自軍に不利なだけじゃないか、開発する意味があるのか?」
「正論だ」
さらに珍しいことに同意したと思えば、それでこそ、という勢いで、すぐにはねられた。
「でも前提が間違っている。今、君は紋章が使えるだろ」
「あ、そうか」
もともと、ルックがここに来た当初いつにも増して不機嫌だったのは、他の魔法は使えるのに、なぜか転移だけが使えなくなっていたからなのだ。ルックが何度か風を起こして、それは確認している。イオも右手はさすがに試していないが、左手につけていた水の紋章にも、土地柄なのか少し冷気を感じるだけで、それも錯覚と思えば、別段妙な点はないようだった。ルックの説が正しければ、おそらく、水の紋章の気配に何か反応を起こしているのだろう。
「おそらく本来の目的は、魔法効果の増幅だ」
「増幅?」
今までの話とその言葉が矛盾していて、イオは聞き返した――<静かなる湖>は、一定範囲内において、魔法効果を顕さないという魔法であるはずだ。
「おまえ、転移が『できない』んだろ?」
「できないよ」
ルックは鸚鵡返しに返す。イオはますます眉を寄せた。それで、どうして魔法効果の増幅などという結論が出るのか、理解できなかったからだ。
不審げな視線を寄越す彼に、ルックは渋るようにしながらも、口を開いた。
「今までのもそうだったけど、これは全部、僕の憶測にすぎないから、そのつもりで」
「わかってる」
イオが了解を示して両手を挙げるのを確認してから、ルックは再び口を開いた。
「転移だけができないのは、五つの法式にしか対応してないからだ…と、思う」
やはりその口調からは、らしくもなく断定の勢いが欠けている。
「五つの法式って……五行のか?」
「そっちじゃなくて、風の紋章に定められている五つの法式。<眠りの風>とか<切り裂き>とかの五つ」
言ってから、ルックは生徒の理解を窺うようでいて、その実正答をうながす視線をイオへ向けた。そしてそこに、やる気が見られない雄弁な沈黙と表情を見出して、口をつぐんだ。
イオは取り繕うように手を振った。
「……いや、それくらいはわかってる。それがどう繋がるのかを、簡潔に、言ってくれ」
「……」
ルックはおもむろに立ち上がると、左手を軽く上げて、伸ばした指先を動かした。
「今から水を出すよ」
そう言って、しばらく手を差し出したままじっと待った。しかし、何も起こらない。
間抜けなルックの姿をしばし鑑賞してから、イオは突っ込んだ。
「……出ないじゃないか」
「そうだね」
ルックは頷き、
「でも、『こっち』ですると」
その言葉と同時に、爪の先の空間から、細い水流が勢いよく溢れ出した。両手を掬う形にすると、見る間にその器の中に溜まる。指の隙間から落ちた水が、石の床を叩いてブーツの爪先を濡らした。
喉の渇きをイオは思い出した。
「……やっぱり」
「自己完結はやめろ」
波打つ自分の掌の中を見下ろして頷くルックに、イオは文句を言った。立ち上がると、なんとなくその掌の中の水を観察する。
そんな彼を見て、ルックは面倒そうに口を開いた。いかにも、自明の理を説明させられるのがたまらない、と言うようだった。
「この水を出す魔法は、紋章使いの間ではそこそこ知られているものだよ。攻撃法式ではないから有名ではないけれど、ハルモニアでも法式が認定されている。でも、別にそのハルモニア式に沿わなくても、これくらいのことはできるんだ」
「へえ」
気が抜けた相槌に、ルックは少し不満そうだったが、何を言っても無駄だと判断したのか、反応を無視することにしたようだ。
「……はじめは、別のやり方――僕が普段使う法式で水を出そうとしたんだけど、うまくいかなかった。けど、ハルモニア式を使うと、水は出た。つまり」
「ハルモニアで認定された法式を使ったときだけ、増幅されるってわけか」
一応納得して、イオは頷いた。
「それはわかった。じゃ、どうしてお前は転移が使えないんだ?」
ルックは顔をしかめた。それこそが、彼があまり言いたくないことだったらしい。
「なんだよ、言ったって減るもんじゃあるまいし」
「減る」
「で?」
即答を無視して重ねて促すと、ルックは渋々口を開いた。
「……風の魔法としての転移術は、まだ法式として確立されていない。だからサポートの対象外になって……むしろ、力を振り分けないように作用するんだと思う」
「法式として確率されていない?」
そこだけ抜き出して復唱すると、ルックは実に嫌そうな顔をした。こんなときだけ、と言いたげだ。
「……そうだよ」
「それってまだ、神殿で認められていないってことか」
「公表する気もない」
鼻を鳴らしてルックはそっぽを向く。
「転移ってのは、かなり重大な法式なんだろ?」
「さあ」
「極秘かつ、便利な裏技ってことだよな」
「まあ、そうとも言えるかもね」
「じゃ、何か。おまえはそれを、あんな景気よく軽々しく……一階から二階に移動するだけだってのに使ってたのか……」
思わずしみじみとしてしまったイオに、ルックはむっとして声を荒げる。
「散々利用しておいて何を言ってるんだよ。それにどうせ、この転移魔法は僕以外には使えないんだからな」
「ほお、たいしたご自信で」
「事実なんだよ!」
肩を怒らせて牙を剥く姿は、まるっきり猫である。
「はいはい、つまり今の状態は、五行の紋章の五つの法式だけが増幅されて、あとの魔法はまったく使えないっていうことなんだな?」
本題に戻すと、まだありありと不満が残る様子ではあったが、ルックは矛先を納めた。
「……まったくというわけじゃない。君の右手は使えるかもしれない、<静かなる湖>だって、完全な真の紋章を抑えきれるほどの強制力はないから」
「え、そうなのか?」
イオは目を見張る。彼は今まで何度か、<静かなる湖>の効力範囲内で右手の紋章を発動させたことがあった。しかし一度も、紋章が発動したことはない。
「それは君の魔力不足と思い込みのせいだ」
イオが言いたいことを見越したかのように、報復のつもりか、ルックは素っ気なく断定した。
「真の水の紋章を使用するのでもなければ、あの魔法は、同程度の威力の魔法効果を抑えるくらいが能だ。特に闇の属性には弱い。黒インクに水を混ぜても、中和するのに限界があるだろ? 力が強すぎると中和しきれないんだよ」
「ふうん……で、その増幅魔法をどうにかする方法はあるのか?」
あからさまな流しように、ルックは不機嫌に毒を吐いた。
「たまには自分の頭を働かせろよ。脳味噌が倦むよ」
「適材適所適用」
のんびりとした答えに、ルックは下品に舌打ちする。
「……魔法効果を増幅してるのは、紋章魔法じゃない。たぶん、シンダルの知識を応用してるんだ。この土地全体が儀式の場になってるんだよ」
イオは眉を寄せた。
「シンダルの儀式ってのは、魔法陣とか魔法具とかを使うもんだろ?」
「そうだよ、たぶん儀式の道具として、紋章を組み込んだんだ。水晶や鉱石の代用にすると、相乗効果が認められる場合があるから……」
ルックはふと、口をつぐんだ。それらしいハルモニアの実験記録がいくつか残っていたはずだと呟き、それっきり、何事かを考え込むように沈黙する。
それが焦れったくて、イオは途切れた言葉を勝手に繋いだ。
「ということは、道具になってる紋章をぶっ壊せば、わざわざ馬やら何やら奪わなくても、おまえは転移が使えるようになるってわけだな」
事実に命令するように決めつけて、彼は不適な笑みを浮かべた。