日差しの中でナナミは目を覚ました。少し肌寒かったが、よく食べ、よく学び、よく遊び、よく眠ったあとのような、爽快な目覚めだった。
「んん…?」
何度か寝返りを打ってから、頬にふれる感触に気づいた。本拠地のまだ慣れない柔らかな布団とは違う、じゃりじゃりとした地面の感触に目を開ける。
「あれ?」
そうして顔と身体を横にしたまま、ナナミは呟いた。
目の前には、背の低い灌木の茂みの、びっしりと詰まった根があった。上に目だけを向ければ、濃い緑色の天井が疎らに光を通している。
ナナミは上体を起こし、きょろきょろと首を動かした。
森と街道とが、ちょうど茂みで隔てられた場所に倒れていたらしかった。緑が豊かな地ではないのか、灌木から離れれば芝は申し訳程度に生えているだけで、剥き出しの地面が頬をこすったようだ。
立ち上がろうとして、彼女は顔をしかめた。右足首に鋭い痛みが走ったのだ。どうやら、捻挫をしているようだった。彼女は唸り、困惑した。もともと紋章が得手でない上、治癒の力を持つ紋章を今は宿していなかった。治療はできそうにない。
なるべく足を動かさないように座り直し、ナナミは周囲を見た。
空は薄い青で、雲も掠れるように細いものが長く浮いているだけだ。その下、つまり彼女の眼前には、葉の少ない木々が並んでいる。森というより、林のようだ、と彼女は思う。彼女の故郷に似ていたが、キャロの木々の緑はもっと深いものだ。
目覚める前のことを思い返すと、自分がここにいる理由はすぐにわかった。ビッキーが転移に失敗したのだろう。
「困ったなぁ」
呟いて、ナナミはふと、顔を上げた。
人の声が聞こえた気がした。
痛む足をかばいながら、彼女は灌木の茂みの側へ這い寄った。街道から姿が見えないように身を隠しながら、上体を倒す。草と土の薄い匂いが立ち上がった。
耳を澄ませると、今度ははっきりと、声が聞こえた。女が誰かに必死で呼びかけているようだった。
「――…さま!」
女の声は、困惑と苛立ちを湛えている。
ふたつの気配は、ナナミのいる茂みの近くを歩いた。ナナミは見つからないように身体を小さくし、息を潜めて、それが通り過ぎるのを待った。助けを求めてもよかったのだが、そのふたりの雰囲気は緊張を湛えていて、とても話しかけられるものではなかったのだ。
だが、ナナミの側を通り過ぎる寸前で、その気配はぴたりと止まった。
「……なんだい、もう」
焦れたように、片方が言った。少年の声だった。その声に栓を抜かれたかのように、安堵と興奮の入り交じった声で、女の声がまくし立てた。
「お願いですから、供も連れずにお出かけにならないでください」
「そうは言うけれどね、自分より弱い者を護衛にしてどうするのかな? 数を揃えても、後ろをぞろぞろされるんじゃ金魚の糞みたいで鬱陶しいし、彼らだって、休息の時間を削って上司と散歩なんて不本意だろう」
流れるような皮肉に、ナナミはルックを思い出した。忌々しいことに、そう思うと声まで似ているように思える。
「部下の心情など考慮されなくてけっこうです!」
苛立ちが臨界に達したのだろう、声を荒げてから、女の声ははっとしたように口をつぐんだ。一秒後、再び口を開く。
「…他の者がしますから。ですからですね…」
「はいはい、わかったよ」
おもしろがっているような調子でおざなりに返事をして、少年は肩をすくめたようだった。
「でも、大げさな心配だね。ここはもう我々の領土内だし、一応、安全だよ」
「しかし、誰もそれを保証できません。たとえば紋章封じなどがかかっていれば、あなたは…」
「大丈夫だよ、そんな気配は感じないし」
少年はずいぶんと呑気で、しかし自分の力に自信を持っているようだ。
「だいたい、誰がどんな目的で、そんな罠をしかけると言うんだい」
「ですが万が一、そのような気配を察し損ねられたらどうなさるおつもりですか。失礼ですが、その細いお腕で、武器もないのに、どうして戦えますか」
聞いた限りでは、女のほうが少年の部下にあたるようなのに、意外にキツいことを言う。ナナミは心中で拍手を送った。
少年もこれには反論できないらしく、応じる声が、一拍ほど遅れた。
「…言うね」
「言わせていただきます」
断固とした女に、しばらく閉口してから、少年はお手上げとでも言いたげな調子の声を出した。
「いいじゃないか、君もいることだし」
女が嘆息した。
「今回は、ですし、追いつけたかの保証もありません。どうか、もう少しご自重ください。あなたが姿を消されては、兵士たちも不安になります。ただでさえ、はじめての負け戦で動揺しているのですから」
「ああ、耳が痛いな」
そこではじめて、不機嫌を声に滲ませて、少年はぼやいた。
「それで逃げ帰って来たなんて、なんて言われることやら」
「一度、態勢を立て直す必要があります。適当な判断と言えます」
「そうだね…」
何か皮肉を言いたげに揺れる少年の声が、先ほどまでの勢いを失っている。それを案じたのか、女の声が柔らかくなった。
「先ほどは言い過ぎましたが、負け戦でもないですよ。こちらとて、損害は出しましたが、壊滅でもありませんから。――ただ、再度の出兵は…」
言葉を濁す女に、少年はあっさりと言った。
「それはまずないだろうね。これでハイランドともお別れかな」
「お別れ…ですか」
「そう。次に来るときは、国名が変わっているかもね」
声はまた、どこかのんびりしたものに戻っていた。
「冗談にしては、笑えません」
答える女の声は、どこかほっとしている。無関係の人間だが、なぜかナナミも安堵して、緊張していた肩から少しだけ力を抜いた。
その絶妙な間に、
「ところでさっきから、なんだか妙な感じがするんだけれど、君はどう思う?」
ふと、少年が言った。まるで天気を尋ねるような軽い調子だったので、一瞬ナナミは、彼が何を言ったのかわからなかった。先ほどからずっと、痛み続ける足首に、知らず息が上がっていたことに、彼女は気づいていなかった。
そしてその意味をナナミが考える前に、女が即座に対応していた。
「こちらのようですね、――…ん?」
色素の薄い碧眼と目が合い、ナナミは仕方なく、弟によく似た、緊張感のない笑みを浮かべてみせた。