神 聖 国 紀 行

 暗がりの中でクウヤは目を覚ました。寝苦しい夜に無理に目を閉じて、どうにかやり過ごしたような、不愉快な目覚めだった。
 目を閉じたまま、しばらくぼんやりとする。そのうちだんだん意識がはっきりしてきて、細く目を開けようとして、慌てて閉じた。
「――…すから、眠らせておきました」
「ふむ」
 聞きおぼえのない声が、さしたる関心を寄せてもいないように鼻を鳴らした。
 クウヤはできるだけ不自然でないように、それまで無意識の自分が行っていただろう速度で呼吸を繰り返した。狸寝入りは昔から得意だったが、それでも、悟られるかもしれないという不安で、奇妙な力のかけられ方をした腹筋が痛む。
 幸い、すぐ側で話す人間たちは、足下に転がる者の些細な変化に気づかなかった。
「どうしましょう?」
 窺うような声音は、高くはないが低くもなく、若くはないが年老いてもいない、特徴のない声だ。それに対する声は、豊かで、やや情緒にあふれすぎていた。
「まだ子どもであろう、それも見ろ、貧相な…どうせ腹を空かせて潜り込んだのだろう。捨て置いてもよいのではないか」
 あまりに都合のいい言葉に、一瞬耳を疑いながらも、そうだ、そうしろと、クウヤは心中で叫んだ。しかしそれは、当然だが届かない。
「ですが、かなり鍛えているようです」
 もうひとつの声が反駁した。ただの少年にしては筋肉のついた、一対一の戦闘にも耐える腕を見ての言葉だろう。
「うむ…」
 言われて気づいたらしく、豊かな声の持ち主は、しばらく沈黙した。その沈黙を破って、もうひとりの、特徴のない声が響く。
「今回の侵入者が何者の手によって送られたのか、確かめなければ…」
 その言葉に、クウヤは背の筋肉が引きつらせた。
 何か、素性が知れるものを身につけていたかと考えて、軍師に守り袋を持たされていたことを思い出す。これなら忘れることもないだろうと嫌味たらしく言われたものだ。その中には、クウヤ自身と、軍や主だった都市の幹部の署名が連ねられた書があり、その威容が通じる各所で補給を願い出ることができるのだ。
 ハルモニアの言語を、クウヤは詳しく知らない。しかし、ここに来たときに見た看板に書かれていたような、ミミズがのたくったような字を持つのであれば、デュナン地方で使われている文字を読むことはできないかもしれない。楽観的に考える努力をしてはいたが、それが淡い期待だとはわかっている。彼には読めなかったが、イオやルックには読めた。もちろんハルモニアにも、彼らのような存在がいるはずだ。
 さすがに、交戦中の敵軍の首領や幹部の名を見れば、解放してくれることはないだろう。
 そこまで考えて、ふと、クウヤは眉を寄せた。
 どこか、ひっかかるところがあったのだ。何かを忘れているような、大事なことを見落としているような、そんな気がして、さらに眉間の皺を深めていると、
「…ん?」
 男が不審げに声を上げた。
「どうかなさいましたか」
「いや、この子ども…」
 クウヤは悲鳴を喉の奥に隠して、気絶したふりを続けた。表情の変化に気づかれたのだろうか。演技の最中に演技を忘れるなど、減点ものの失態だ。
 狸寝入りを見破られたかもしれないという恐れと、先ほどから続く得体の知れない不安感が全身を熱くして、心臓の音がうるさく鳴る。
 不安は的中し、次に聞こえてきた言葉に、上がった熱がすべて引いた。
「この右の手の甲にある、これは、紋章ではないのか? 見たことがないが…」
 クウヤは全身の血が凍るような錯覚に陥った。
 先ほどからの嫌な感覚はこれだったのだ――クウヤは動けず、心中だけで歯がみした。
 両手にはめていたはずの手袋がなくなっている。代わりに手首に、細い鎖のようなものが巻かれていた。ふれる金属から伝わる冷たさが、痛みになって、きつく肌を刺激した。その鎖がなんのために巻かれたのか、わからないまま、クウヤは木偶の坊のようにうなだれる。
「言われてみれば、見覚えがないものですね」
 どこか白々しい口調でもうひとりが応じる。
 見たことがないのは当然だ。よほど紋章に詳しくても、真の紋章を見たことがある者など稀だろう。だが、ハルモニアのそれなりの地位にいる人間であれば、見慣れない複雑な形の紋章が、何を意味するかを考えるはずだ。
「ヒクサク様は、珍しい紋章を集めていると聞いているが、これは違うのかな?」
 知らない声は、案の定、最悪の台詞をかたどった。
「どうでしょうか」
 クウヤが身を強ばらせたのに、気づいたのか気づかないのか、その声はとぼけた。
「私たちではわかりかねますね。紋章の区別などできませんし、そもそも、これが本当に紋章なのかもわからない。ヒクサク様が珍しい紋章を集めておられることは確かですが…」
 そこで笑う気配があった。
「私たちにすれば、紋章自体がもう、珍しいものですからね」
「それはそうだな」
 重々しく頷いて、纏う甲冑が擦れたようだ。
「…しかし、これも近ごろでは戦場に出回っているようだが、せいぜい矢傷の血止めくらいにしかならん。このような不便なものを喜ぶ奴らの気が知れんぞ、私は」
 クウヤは瞼を開く衝動を堪えた。
 ハルモニアは、紋章に関して、他国から五歩は先を行く国である。紋章の情報はすべてハルモニアが発信源で、紋章の勉強はハルモニアでしかできない、そう言っても過言ではない。もちろん戦場でも、紋章の戦術に関して敵う国はない。
 その内情がこの程度のものであることに驚いたのだ。
 自軍の魔法兵団はそれほどに有能なのか、と一瞬考えるが、思い直した。この砦のことだから、単に中央と事情が違うだけかもしれない。
「ですが…」
 話が再会され、いくつ目かの疑問をまた脇において、クウヤはふたりの男の話に耳を傾ける。
「たかが矢傷でも、負っているのとそうでないのとでは、随分と違います。あなたならわかるでしょう? それに、紋章に関しては、まだまだ開発の余地もありますし」
「それはそうだろうが」
「だからこそ、この場が用意されたのですよ」
 遮って、断言される。
 もうひとつの声が、渋々という調子で押し黙る。
「ヒクサク様は別格ですから、あの境地に達することは不可能かもしれませんが、近づけることはできます」
「まあ…」
 答えた男は、響きのいい声に、やや諦めの気配を混ぜた。
「紋章の気配を読み取るなど、ヒクサク様だけに許された力だろうしな」
 クウヤは自軍の第二魔法兵団長の顔を思い浮かべた。彼自身はもちろん紋章の気配など感じたことがないが、数時間前まで行動を共にしていた部下が、幾度もそれを匂わせる言葉を呟いたことは覚えている。彼が出鱈目を言っている可能性もあるが、そんなところで騙す性格ではないはずだ。
 紋章の気配を知ることができるのは、何もルックだけではない。宿星の中でも、紋章師のジーンや魔法兵団長のメイザースなどは言うに及ばず、勘の鋭い者であれば、持っているという事実だけなら知ることが可能だ。
 実戦で鍛えられたことも関係しているのだろうが、同盟軍の紋章探知能力は優秀といえる。だからこそ、魔法兵団を構成できるだけの紋章を集めることができるのだ。しかしそれでも、ハルモニアには敵うまいと、それだけは関係者の間でも言われている。
 クウヤは困惑した。
 ハルモニアの程度が知れないのだ。彼の知っているその国と、今男たちが話していることには、大きな隔たりがあった。
 彼が祖父から教わったのは故事や字の読み書き程度だった。同盟軍に入ってからは、兵法について学んではいたが、もともとはたいした学のない身である。勉強を怠ったわけではないが、専門の教育を受けたイオたちのように詳しいハルモニアの知識は、まだ持ち合わせていない。
 まさかこのような事態に陥るなど、誰も想像しなかったのだから仕方ないだろうが、今はそれが悔やまれた。
「――…さて、では、そろそろですね」
「うむ」
 何気なく、若いほうの声が言った。もう一つの声も同意した。それは、今までの世間話を終いにする言葉だった。
 人間が身体を動かす気配がして、具足や布の擦れる音がが聞こえてくる。出て行くなら好都合だ。頃合いを見計らって拘束を解こうと考えたクウヤの二の腕に、固い手のひらがふれた。
 何かを思う暇もなく、ぐい、と引っ張り上げられる。拘束されたままの暴行に、肩の関節に嫌な痛みが走った。小さな音が聞こえたような気がして、クウヤは呻く。
 豊かなバスが、ひやりとして届けられた。
「気がついているのだろう」
 クウヤはしばらく息を止めてから、ゆっくりと瞼を上げた。