神 聖 国 紀 行

 男はぼんやりと、窓の外を眺めていた。
 口元にはうっすらと無精髭が生え、見苦しい。しかし彼はそんなことには無頓着だった。とは言え周囲は彼ほどには無頓着ではないので、数少ない年頃の娘などはことごとく、あからさまに彼を避けた。だが、普段は周りの同年代以上にそういったことを気にする彼は、今回ばかりはそれに気づいても取り繕う気力がなかった。
「はぁ…」
 頬杖をつき、恋患う処女のように切ない吐息を漏らす。開け放たれた扉の外でうっかりそれを目撃してしまった年若い兵士が、嫌そうに鼻をひくつかせてそっぽを向いた。早足になって廊下を去っていく。
「はぁ…」
 まったく気にかけず、男はまた吐息をこぼすと、ぞりぞりする口髭を指先で弄った。
 髭の感触は久しぶりだった。
 どうしてこんなことになったのか――改めて反芻せずとも、簡単に答えは出る。散々心の中で、その原因を繰り返し思い返したからだ。
 あの煙がわるいのだ、と男は思う。その思考に辿りつく経路はやや被害妄想じみていたが、それはたしかな事実だった。あの煙さえ見なければ、この大事なときに、こんなことにはならなかったのだ。
 そう、よりによって今、あの部隊の前で問題を起こしたこと。
 それが彼の、コップに戻しようがない、とてつもない量のミルクだった。飲めもせず、放っておいてもバターにもチーズにもヨーグルトにもならない。
 ミルクの別名を後悔と言う。
「…ん?」
 ふと男は、身を捻るように振り返って、窓から身を乗り出した。隣で物音がしたように思ったのだ。
 彼の目に映ったのは、棒きれが一本、中空を滑り落ちる様だった。一瞬呆けてから、地面を覗き込むと、無人の固い地面の上に竹ぼうきの柄のようなものが転がっている。どうやら隣の、廊下の窓から投げ捨てられたものらしい。
「…何だ、下に誰かいたらどうするんだ!」
 けしからん、と男は憤然と立ち上がった。
 人がいたら、八つ当たりだ、と叫んだことだろう。しかしあいにく、彼の乙女ため息の不気味さに、そこにはすでに彼を止めるものは誰もいなかった。

「……変なもん引っかけちまったなあ、おい」
 誰にともなく呟いて、イオは肩を落とした。
 彼の足下には、中年の男が転がっていた。倒したのではない。勝手に倒れたのである。その顔には見覚えがなかったが、男が失神する寸前に上げた悲鳴の声には聞きおぼえがあった。
 昨日の、野宿場所に部隊を案内してきたあの男だ。
 そこはもう、建物の外だった。透明度の高い明るい日差しが、ひんやりとした、澄んだ空気と混じっていた。兵士たちの気配はそこかしこにあるが、気配を気取られるほど近くには姿はない。二階に上がる前に見たときには無秩序に散らばっていて、それがかえって危険だと思っていたのだが、どうやら統一された指示が行き渡ったらしい。
 好都合だ。
「が、……どうすっかな、コレは」
 中年の男はまだ転がっている。時折、寝言まで漏れる。イオとしては、こんなむさ苦しい中年男がどんな夢の中で何を言っているのか、知りたくもなかった。
 彼は男を見下ろして、長く息をついた。

「紋章のこと、どれくらい知っている?」
「……どれくらい、と言われてもな」
 気怠げな空気をまとわりつかせたままそう切りだしたルックに、イオは言葉を濁した。どうも、話が妙な方向に進みそうになっている気がした。
 しかし、ルックは彼の相槌には頓着せず、勝手にまた話し始めた。
「世間一般で言われている、魔法に関して。…たとえば、法式がどこで、どんな方法で規定されるかとか…」
「ああ、ハルモニアの神殿だろ」
 それくらいは知っている。伊達に将軍家の嫡男をしていたわけではないのだ。ハルモニアがいかに強大で抜け目ない国家であることは、嫌になるほど教え込まれている。
 紋章関係の研究については、他国と比べて数十年単位で先を進んでいるのがハルモニアだ。クリスタルバレーの周囲には神殿直営の研究所が多くあり、国家の大々的な支援がある。紋章研究者たちにとって、紋章学という学問の発祥から今までずっと、神殿は最高学府なのだ。
 現に、法式という基準をつくり出し、流布したのもハルモニアである。
「それが何か関係あるのか」
「それなりに。かいつまんで説明するにしても、ある程度の知識がないと、理解できないと思うよ」
「…あー、自信はないぞ」
 いっそ胸まで張ってやろうかという勢いで、イオは宣う。してみてから怒られそうな気がして様子を窺うと、意外にも相手は、少し気分が悪そうではあるが平常状態だった。彼にしては非常に珍しい。
 ――と、思ったのは甘かった。
「まず法式っていうのは、主に魔法系の紋章に定められている、力の運用法のことだ。正確にはZauber Form、紋章法式と言う。特に五行の紋章に定められた五つのFormはFunf Form der Mesner『メスナーの五つの法式』と呼ばれて、もっとも研究が盛んな…」
「ストップ」
 イオは止めた。
 ルックが不満そうな顔をする。
「や、そこらはいいんで先をお願いします先生」
 どちらかと言わなくとも武術派なイオは、とりあえず下手に出て頼んでみた。古ハルモニア語まで駆使して説明されても、門外漢には辛いだけである。
「要するに法式ってのは、風の紋章でいうと、切り裂きとか眠りの風ってやつだろう。それくらいはわかってるぞ、さすがに」
「…まあ、簡単に言えばね」
 ルックは渋い顔をつくってから、仕方ないと言いたげに首を振って、
「魔法紋章の法式は、ハルモニアで規定される。まずこれは知ってるんだね」
「ああ」
「これは大陸的な規格だから、規定するにはもちろん、厳密な審査がある。これに通るような新しい発見があるのは、十年に一度、あるかないかだ。神殿で審査議会が毎年設けられて、数ヶ月に渡ってねちねちと提案者をいたぶる。このとき三桁のぼろが出なかったら、まあ、いいほうだね」
「聞いてるだけで鬱陶しい気分になってくるな…」
 短気なイオとしては、想像するだけで苛々してくる。
 彼は軍主時代、どんなに重要な会議でも、二時間を越えさせたことがない。決断力があるといえば聞こえはいいが、要するに、じっとしているのが好きではないのだ。のんびりするのは一向に構わないが、遅滞や無駄は嫌う。
 言ってしまえばただのわがままだが、当時はそれも軍主の有能さを示していると言われていた。本人からして不可解に思ったのだから、他の人員、特に実践前の議論を大事にする軍師やこの目の前の魔法兵団長は、余計に首を傾げたことだろう。だいたいにしてそのしわ寄せは彼らに行ったものだった。
「…新しい法式はほとんどが神殿付属の研究所で発見され、ネットワークや機関誌に乗せて広められる」
 イオの思考が軽い脱線から戻ったのを感じ取って、ルックは再び口を開いた。
「ネットワークっていうのは主に、紋章研究所のつながりだ。そこが発行する機関誌が、さらに一般に出回ることになる――主に戦場からね。だから、新しい法式が普遍的要素として定着するには、一部の職業間や地域を除けば、年単位の時間がかかる」
「そりゃ、大陸は広いからな」
「そう、そしてその中でも、ハルモニアは広大な領地を支配している」
「……そうだが」
 デュナン地方も、トラン湖周辺も、もとはと言えばすべて、ハルモニアの領地だったのだ。ここ百年ほどで、独立や領地分けのかたちで、少しずつ南側の国境は北上している。しかし東西に関してはいまだに、積極的に吸収のための派兵が行われているし、今回の戦への介入にしても、領土を下賜したとはいえ、ハイランドは今もハルモニアの庇護下――支配下にあるという示唆のために援軍を送ってきたようなものだ。
「それで?」
「…領地には様々な種類があって、ハイランドのように形だけでも独立を許されたところもあれば、植民地や田畑扱いされている国もある……」
「まあ、それが目的だろうから、当然だろうな」
 頷きながら、イオは眉を寄せた。
 いつになく、ルックは歯切れ悪い話し方をしている。彼はまだ、自分の考えを確信していないようだった。話している間も、思索するように腕を組んで、視線を固定していないところからもそれがわかった。
 それに先ほどから、珍しく自信なさげに、何度も同じことを繰りかえしている。
 しばらくは我慢していたが、次第に気短な性格が顔を出して、
「で、おまえは何を言いたいんだ」
 結局イオは結論を急がせた。
「別に正解を強要してるわけじゃないんだから、さっさと、簡潔に言えよ」
 そう言うと、ルックは諦めたように肩を落とした。しばらく黙ってから、彼は口を開いた。
「…法式はハルモニアで制定される。そしてハルモニアの自由になる領土は広大だ」
「つまり?」
 淡々と促すイオに、ルックは嘆息混じりに――今まで鬱陶しい説明をしていたのが嘘のように、簡潔に結論を言った。
「ここはおそらく、新しい法式開発の実験場なんだ」