おろおろとして、かついつになく機敏に執務室に飛びこんできた紋章使いの少女に、シュウは頭痛の種がひとつ増えたことを知った。
「もういい、今となっては済んだことだ。ついでに手配すればいい。いいじゃないか…」
「兄さん、落ちついてください」
口元に笑みを浮かべたまま遠い目をする軍師を、アップルがやや青ざめた顔で諫める。
「俺は落ちついている!」
唐突に激昂して彼女を縮こまらせ、それに気づいて、シュウはわざとらしく咳をした。そうすると気が鎮まるのだ。何度か深呼吸をして冷静さを取り戻す。
ビッキーを定位置に戻らせると、彼は平坦な声で指示を出した。
「――各地に通達を」
「すでに手配しています」
頷いたところに、扉が開いて、伝令兵が顔を出した。
「お呼びの方をお連れしました」
「通せ」
その言葉に応えて入ってきたのは、重たげな外套を着こんだ壮年の男だった。服装は紋章使いが好む、特別製の布で織られた長く引きずるものだが、がっしりとした体格で、紋章使いと言いきるにはためらいをおぼえさせた。
第三魔法兵団長、メイザースである。高名な紋章研究者であるクロウリーの弟子で、彼自身、新しい紋章術の開発に余念がない。今回は、少年たちの行方をまったく心配していないわけではないのだろうが、捜索には出ずに本拠地に残っている。それは、シュウが要請したことでもあった。
落ち着く間を置かず、シュウは早々に質問を投げた。
「話しておいたことだが…今回の件について、紋章学の見地から、何か助言はないか」
その声には隠しきれない疲労が混じっている。
メイザースを含めて、紋章使いに話を聞くのは、これで四度目だ。その全員が、代わり映えしない、なんの役にも立たない見解しか言わなかった。紋章使いは少数で、熟練者はさらに少数だとよく言われるが、それはまったくの事実である。現に、この軍の魔法兵団も、突出した団長たちとそこそこ使えるものを除けば、あとはどんぐりの背比べのお粗末さだ。
だからこそシュウは、わざわざこの、対面して話すには少し気が重い相手を呼んだのだった。紋章の知識が豊富で、さらに実践にも長けている。今回の件についての調査を任せるにはうってつけの人材だ。しかし、軍への服従の意も協調性もない。軍主に対しても、形式的にでも頭を下げようとしない。
頭が痛い話で、軍師としては、軍勢を率いる以外ではあまり頼りたくない――つけあがらせたくない相手なのだ。しかしこの非常時に、そんなことも言っていられない。
「一概には言えんな、当然だが」
シュウが厭う、居丈高な態度で、メイザースは言った。
参謀本部の軍師たちも捜索の手勢に駆りたてられたため、執務室にいるのはシュウとその妹弟子だけだ。傍らに控える少女の視線を考えて、どうにか不快感に耐えようとしたシュウだったが、その気力は極度の疲労に脆く崩れ去りそうだった。
「広間にはたしかに、風の紋章を使ったような気配が残っておった。だが、それだけでは、手がかりすらつかめん」
胸を張って言うので、いっそ自慢しているようにすら聞こえる。シュウは額に刻まれた皺を押さえ、数秒ほど黙りこんでから、口を開いた。
「それはもういい、そんなことを聞きたいのではない。転移の範囲というものがどこからどこまで、どれくらいの距離なのかが知りたいのだ」
「ふん」
メイザースは鼻を鳴らした。そんなことか、とでも言いたげである。
シュウは切れそうになった血管を必死に宥めた。隣でアップルが、爆発の予感に青ざめている。なぜこの嫌な顔合わせの場に自分ひとりだけしか残されていないのだ、と嘆きたげだった。
メイザースは、無駄な風格を漂わせている仰々しい態度で腕を組んだ。
「貴様らにもわかるように簡潔に言ってやるとしよう。つまり、あの小僧はあの瞬きの小娘のように、魔法に失敗しただけなのだ」
「それはわかっている、だから…」
「まず」
メイザースはシュウの言葉を遮った。こういうところが、彼がこの相手を嫌う理由なのだ。苛立ちを抑えて、シュウは話に耳を傾けた。
「風の紋章による転移と瞬きの紋章による転移との大きな違いに、出現地点――正確には出現状態だが、その詳細な設定というものがある。目的地の相対もしくは絶対座標や速度、温度や湿度などだが。これさえ正確に把握すれば、風の紋章による転移には、飛距離の制限はないといっていい。ただし、未知の場所には行けんし、情報伝達の制御には限度があるだろうからな。つまり一度の飛距離の上限は使い手の判断だ」
さすがにそれなりに専門的な説明をする。シュウはとりあえず満足し、頷いた。
「ルックが、最長でどれだけの距離を転移できるか…それで少なくとも、石版からの半径だけは判断できるということか」
「とりあえずはな」
「アップル」
「私が知る限りでは」
シュウの促しに、少し言いよどんでから、アップルは答えた。
「――ここからグレッグミンスターまで、でしょうか…」
室内にしばらく沈黙が落ちた。
一応調査の人手に連絡を、と言う彼女に、シュウは疲れたように手をふった。
「いや、いい。わかった」
得たと思った情報が、なんの役にも立たないものだったということがだ。
普段は重宝し、こき使っている立場だが、このようなときになると、その有能さも憎らしくなる。ルックがもう少し凡庸な使い手であったら、捜索も楽に終わっていただろう。それ以前にこのような騒ぎも起きなかっただろうが。
「ご苦労だった、では…」
「まだわしの話は終わっておらんぞ」
すでに用は済んだと、下がらせようとしたところに、またも横やりを入れられる。兄弟子のこめかみに不吉な陰を見て、アップルが慌てて口を差しはさんだ。
「まだ、何か有益な情報が?」
「先ほど、未知の場所には行けんと言ったが…今回はおそらく、出現地点の設定に何かの狂いが生じて、自分らでも転移した場所がどこか、知れなくなったのだろう。つまり、なんにせよ、飛距離にこだわるのは無駄だ」
「……」
「に、兄さん」
そういうことは早く言えと、叫びそうになるのをぐっとこらえてシュウは拳を握った。だいたいが、紋章の講義を聞きたいわけではないのだ。またもや無駄な時間を過ごしたことになるわけである。
横合いで、ふとアップルが控えめに尋ねた。
「転移した道筋みたいなものの痕跡を辿るとか、そういうことはできないんですか?」
「これだから貴様らは無知だというのだ」
メイザースは嘆かわしげに嘆息した。
「もともとそういう、魔力のトレースなどに適しているのが風の紋章なのだ。あの小僧ほどとは言わんが、風の紋章の使い手をさっさと捜すのだな」
「――は」
早く言え。
何度目かの心底からの言葉を、シュウは無理に飲みくだした。