神 聖 国 紀 行

「ビッキーちゃん!」
 ナナミが声をかけて、しばらくしてから彼女は首を傾げた。
 そのしばらくの間で何をしていたのかと言うと、欠伸をしていたのである。両足を踏ん張って両腕を高々と掲げた、可憐な外見に似合わない豪快な伸びだった。
 腕を下ろしてから、きょろきょろと左右を見回して、彼女はすかんと明るい声を出した。
「えーっと…誰か呼んだっけ?」
「うん、わたしが」
 そう言ってナナミは彼女の正面に回り込んだ。ああー、とビッキーはほやけた笑顔になる。彼女は長い黒髪にほっそりした立ち姿の、清楚で可憐な美少女だが、その言動と独特の表情のおかげで、周囲にはそのイメージより、とろいという認識が先にある。よく例えられるのはかたつむりだ。
「どこか行くの、ナナミちゃん」
「え、どうしてわかったの?」
 ナナミは驚いたが、彼女が背負う巨大な荷物を見れば一目瞭然である。しかし、ビッキーはそれをいちいち指摘せず、にこにことしているだけだ。ナナミも深く追求せずに、ボケは流された。
「あのね、お願いがあるの」
「何?」
 広間にはあまり人影がない。皆、何人かのグループに分かれて、本拠地には最低限の守りを残しただけで、それぞれ故郷やよく知る土地に軍主探索の旅に出かけたからだ。ビッキーは、彼らを送り出すために残っている。
 うろうろと巡回する兵士たちや、男らしく闊歩する女偉丈夫、エレベータ前に居座る発明家さえいない。石版の前にも、もちろん誰もいない。見慣れたと思っていた風景から、突然白々しく疎外された気分にさせられる。もう自分の家と言っても過言ではない場所で、そんな風な気持ちになるのは辛かった。
 だが、妙な感傷に浸る暇があるならば、他にできることがあるはずだった。そういう考えは義弟と同じだ。ナナミは身長の変わらない相手をじっと見て、真剣な面持ちで口を開いた。
「クウヤたちがどこか行っちゃったとき、ビッキーちゃんもここにいたんでしょ?」
「うん」
「だから、もしかしたら、魔力とかでいろいろ探ったりすれば、同じところに飛ばせるかなって思ったんだけど」
「うーん…」
 申し訳なさそうに見えなくもない顔で、ビッキーは黒目がちの瞳を上に向けた。その表情が答えを現していた。ナナミはしゅんと眉を下げる。紋章に詳しいわけではない彼女は、この少女を、唯一の頼みの綱にしていたのだ。
「…無理かな」
「うん…ごめんね」
 ビッキーもつられて、悲しげな顔になる。
「わたしね、そういうの苦手なんだ。それに、ええとね、わたしの転移とルックくんの転移って、違うものなんだって。わたしのは瞬きの紋章で、ルックくんのは風の紋章で…」
「違うと無理なの?」
「違わなくても、無理だと思うけどぉ…」
 彼女は珍しく、困ったような顔だ。
「前に誰かから聞いたんだけど、風の紋章って、本当は転移ってできないんだって。ジョウホウデンタツのヨクセイが人間がひとりでするにはちょっと難しすぎるから、今のところリロンテキに、風の紋章で転移することは無理なんだって、だから会議でも認定はずっと先のことになるだろうとか、瞬きの紋章もそうだけどマッタクサポートタイショウガイとか…」
 ところどころが舌足らずな響きなのは、本人が理解しておらず耳で聞いたままを口にしているからなのか、わかっていても舌がもつれて動かないからなのか、いまいち判断できない。ビッキーは、おそらく、言葉の意味を正確に伝えようなどとは思っていないのだろう。
 たしかにそれは、紋章学を専門に勉強するわけでない一般人には咄嗟にはピンとこない単語ばかりだったので、ナナミにはさっぱり理解できなかった。しばらく黙ってから、わかったことだけを言う。
「えーと、つまり、ルックってちょっとすごかったんだね」
「うん、そうみたい」
 ちっともすごいと思っているように聞こえない。本人がその場にいたら、さぞ嫌そうな顔をすることだろう。
「とにかく、力の働きかたが違うから、そういうのは無理なんだって。ごめんね」
 ビッキーが、彼女にしては精一杯の感情を込めて頭を下げる。だんだん花がしおれるように元気をなくす少女に、ナナミは慌てて手を振った。
「ううん、ビッキーちゃんが謝ることじゃないよ」
 だが、これでナナミに思いつく手がかりは皆無になった。励ます手が、ビッキーに感化されるように力をなくしかける。
 そのとき、ビッキーがぽつりと呟いた。
「イオさんのときは、へリオンさんがいてくれたからよかったんだけどな」
「へリオンさん? 誰?」
「ほら、鏡の前にいる――」
「ここ?」
「あれ? それはわたしで…そうだ、瞬きの手鏡をくれた人!」
 いつものように少し混乱した彼女の言葉を聞いて、ナナミは暗くなりかけていた表情に、ふといつもの明るさに似たものを湛えた。期待と不安に揺れながら、恐る恐る尋ねる。
「その人、もしかして、転移のことに詳しいのかなぁ?」
「うん、きっとそうだと思うよ」
 ビッキーは考える素振りもなく答えた。
「わたしも、イオさんのとき、いろいろ教えてもらったから。さっきの話も、たぶん、へリオンさんから聞いたんだと思う。だから、いたら何か聞けたのに…」
 言いながら、さすがに少し落ち込んだ様子の彼女に、ナナミは勢い込んで聞いた。
「その人、どこにいるの?」
「え?」
「私、行ってくる、その人に会いに。ビッキーちゃん、知らない?」
「えっと」
 間近に迫った相手の顔に、ぼけっと立ちつくしたまま引かず、ビッキーは首を傾げて少し考えた。やがて、ぱっと花のある――しかしやはり、どこかぼんやりとした笑顔になった。
「おばあちゃん、トランにいるんだって、シーナさんが言ってたよ」
「そっかぁ」
 ナナミは満面の笑みを湛えた。一度は消えたと思った目標が、再び見つかったのだ。
 今助けに行くからね、と、彼女は雄々しく拳を握った。頭の中にはすでに義弟のことしかなく、他にもふたりほど行方不明者がいることは忘却の彼方である。宿星を持つ者には、得てしてそういう、特化した記憶力の持ち主が多い。そもそもの元凶としては、忘れられていていっそ幸いかもしれないが。
 少女は気合いを入れ直して、鏡の前に佇む少女を見た。
「じゃあ、バナーまで送ってくれる?」
「うん、いいよ。バナーだね」
 ビッキーは頷いた。彼女は完全に、いつもの調子を取り戻していた。友人の役に立てたことで安堵し、いい具合に力が抜けたのだろう。身体の大きさに見合わない大降りの杖を抱え直し、装飾がついた先端を軽く持ち上げるようにする。
「行きます」
「お願いします」
 律儀に頭を下げて、両者は向かい合い、すぐさま瞬きの紋章が発動した。その転移は、物理的な作用によって行われる風のものとは違って、唐突で味気ない。ただ、日めくりの暦を破るように呆気なく終わるのだ。
 瞬く間に、風呂敷包みを背負った少女の姿はかき消える。
「…あっ」
 そして、可憐で間抜けな声だけが、大広間に残った。