つい数十分前まで、のどかで退屈だった一帯は、騒動のただ中にあった。
侵入者がいるとか、食糧が奪われたとか、そういった大まかな情報しかないまま、兵士たちは広さだけはある建物を走り回った。このような具体的な目標がある仕事は彼らにとってはじめてのことで、どうせまた模擬訓練だろうとだらけたままの兵士や、勝手がわからず右往左往している兵士が大半だ。
前庭には、そんな風に、次にとるべき行動を見つけられずにうろうろする兵士たちがたむろしている。
そんな中、無精髭が見苦しい壮年の男が、野太い声で叫んだ。
「全員、点呼ォ!」
古ぼけた鎧を身にまとった兵士たちが、雄々しく声を上げる。
「第一班、全員そろっております!」
「第二班、同じくそろっております!」
「第三班、六名を厩舎周りに配置、他すべてそろっております!」
「よし!」
無精髭の隊長は頷いた。
混乱を極める前庭で、その一角だけが秩序を保っていた。兵士たちは列を作り、整然と並んで背筋を伸ばしている。まだどこかぎこちなさが残るものの、命令を待つ態勢で、視線はしっかりと、自分たちの前に立つ隊長に向いていた。盲目と言うわけではないが、信頼されているらしい。
もし侵入者たちのうちのひとりでもいたなら、そこに昨晩彼らの野営の跡を探していた、やたらと態度の大きい男を見つけて、意外な姿に少しは驚いたかもしれない。男は別人のようにきびきびと、精力的に動いていた。双眼には目的を見つけた猟犬のような鋭い光が宿っている。
とは言えそれは、どうやら彼の目の前にいる一団だけに示される態度らしかった。周囲は依然として混乱している。中には男に、指示を受けたげな視線を向ける者もあった。だが男はそれらには一切目をくれなかった。気づかないのではなく、故意に無視しているのだ。
「今回の我々の任務は、侵入者を捕らえることだ」
男はスマートとは言えない体型からは想像できない、鋭い動きで兵士たちを見回した。
「生きているのが望ましいが、やむを得ん場合は手荒になっても構わん! 侵入者は確認されているだけで三人。見慣れないものがいたらそいつは侵入者だ」
一団の兵士たちは、心得たような、あるいは納得したような雰囲気を漂わせる。乱暴な理屈だが、この場合、間違っていない。この森の中、閉鎖的な環境で、彼らが外部の者を見かけることは稀なのだ。
「第一班は一棟、第二班は二棟を、それぞれ半数に分けて、内部を探索。外の見張りと階段に二名ずつで、他は上階から巡回しろ。第三班は手分けして他班のサポートだ! 私は他の奴らに掛け合って残りの場所を探させる。侵入者を捕らえたら手近な牢にとりあえずぶち込んでおいて、伝令は一棟玄関脇の兵に渡せ。いいな?」
「はっ!」
兵士たちの声が折り重なった。
機敏に去っていく彼らを、見送る前に背を向けて、男は前庭をぐるりと見回し、苛立たしげに嘆息した。彼の周囲には手持ち無沙汰の兵士たちが、期待の目を持って集まっていた。
「……?」
ゆっくりと速度を落としながら、クウヤは訝しんで目を細めた。
ふと気づくと、背後に迫っていたはずの兵士たちはいなかった。行く手に罠が待ち受けている様子もない。不思議に思ったが、この建物を見た印象から言って、指揮系統が混乱していたり、兵士たちが動かなかったりしているのだろうと思った。いかにもありそうなことだ。少し前までは、自分たちの本拠地もそうだった。細かなところまでいちいち指示をするのが面倒だと、酒場で愚痴っていたのは誰だったか。
歩くほどの速度になって、立ち止まらずに足を動かし続ける。そしてしばらく歩いてから、脳まで火照った身体を冷ますため、その場にゆっくりと立ち止まり、何度か深呼吸をした。熱を持った全身は心地よい疲労に包まれている。敵地で本気で――つまりは我を忘れて走り込みをするなど、迂闊にも程があるとイオなら言っただろう。おそらく、拳骨つきで。いいところの坊ちゃんのくせに彼は乱暴だ。
もうしないことにしよう。
クウヤは脳天気なりに反省して、辺りを見回した。
覚えているものの延長と思しき、うらぶれた雰囲気のもの悲しい廊下である。ただ、今までと少し違い、この辺りの空気は澄んでいる。それは、廊下のすぐ先にある、広い空間から感じるものだった。
既知の感覚を捉えて、クウヤは少し考えてから手を打った。
何のことはない、自分の実家、つまり道場に似ているのだ。本拠地の訓練所にも似ている。爽やかという主張と汗くさいという主張、すっぱり二通りに別れる、あの独特の雰囲気である。
この建物にもそんなものがあったのかと、彼は少し失礼なことを考えた。
「あ、もしかして…」
思わずクウヤは呟いた。
訓練所ということは、武器があるかもしれない。
最初にこんなことを考えてしまうのは、少し悲しいことだと彼は思う。ゲンカクが生きていたら何を思うだろう――弟子たちに鋭利な刃物でなく、攻撃を受け流す武器を与えた師匠は。
しかし殴打系の武器のほうが、攻撃の対象の身体はある意味いろいろエグいことになることに、彼は思い至らなかったのだろうか。
「まさか知っててやったんじゃないとは思うけど…」
口中でぶつぶつと呟いて、クウヤは表情を引き締めた。今は感傷より、身を守ることが大切だった。あの本拠地へ、義姉のところへ、なんとしてでも帰らなくてはならない。
とりあえずその、開けた場所に行こうと足を踏み出したところで、彼は慌てて、入り口の陰に身を隠した。
「――…にしても、こんな早々に嗅ぎつけてくるとはな」
「ああ、まったく――らは、忌々しいくらい鼻が利くんだからな」
金属の擦れる微かな音が響く。
武具をつけた男たちが、おそらく三人ほど、別の入り口からそこに入り込んだらしい。ものが少ない広い空間に、一応はひそめた声が、低く響く。
しゃべっているのはもっぱら同じふたりで、もうひとりは、黙って動き回っているようだ。話し声の合間に、棚の戸を開け閉めするような音が聞こえていた。
「秘密保持は万全ですなんて、笑わせてくれる。ま、最初から期待はしてなかったが」
「そこまで求めちゃ気の毒ってもんだろ。こんなとこでも、――なんだからよ」
「こんなとこでも、一応今では立派な――の要地なんだぜ? しっかりしてもらわねーとよ」
ろくすっぽ用心もしていない自分を棚に上げて他人を誹謗するとは、トランの天魁星でなくとも根性をたたき直したくなるような言いぐさだ。
壁に背を張りつかせて耳を澄ませていたクウヤは顔をしかめた。文脈から推測できるものの、ところどころ、聞き取れない、意味のわからない言葉が混じるのだ。ルックがときどきする紋章の話にも、たまにそういう言葉が出てくる。ハルモニア独特の言語かもしれない。彼にはさっぱりわからない言葉だ。
ずっと黙っていたひとりが、不機嫌そうに言った。
「おい、私語は慎めよ」
「まあまあ、ここのやつらの話では、そいつは一階の廊下をぐるぐる回ってたってんだろ? どこかの網にかかってるって、心配しなくてもさ」
「しかし、そいつ、なんでそんなことしてるんだ? 何考えてんだかなあ」
同感だ。クウヤは口元を引きつらせた。
「侵入者は三人って言うから、囮なんじゃないか」
気のなさそうに、三人目が言う。
「それより、どうやらここにはいないようだ。待機状態に入るぞ」
「了解」
しばらくがちゃがちゃと音がして、静かになった。どうやらその三人は、この場所で、走り続ける侵入者を待つ役目のようだ。
うちひとりが潜んでいる側に来て、クウヤは慌ててそこから離れた。前方と、背後からの気配をたしかめてから、そっと物陰に身を隠して、難しい顔で考え込む。
嫌な予感がしていた。
彼の嫌な予感というものはよく当たる。それは常に、現実の事象に即した予測だったからだ。例えば義姉の食事当番の日など、台所から漂うほのかな香に、よくそのような悪寒、もとい感覚に襲われたものである。
他のふたりはどうしただろうか。不安が急に胸に迫る。まさか捕まるような愚を犯してはいないだろうが、非常事態だ。彼らの実力のほどは嫌になるほど知っているが、落ち着かなかった。
胸騒ぎはざわざわと沸き上がる。それは徐々に拡散し、頭と瞼を重くした。ぼんやりと、視界に霞がかかってくる。全身から力が抜けていって、そして、ついには――
「あ……」
クウヤははっとして、歯を食いしばった。その感覚には覚えがあった。咄嗟に抵抗したが、しかし、遅かった。込めた力は数秒とかからず、ゆるりとほどけてなくなる。
紋章の――眠りの風だ。
そう認識するのとほとんど同時に、暴力的なまでに強烈な眠気に襲われ、彼の意識は消えた。