神 聖 国 紀 行

 小さな鞄はすぐにいっぱいに膨れた。
 厚手の布には内側から圧力がかかり、丸かったり角ばったりしている突起が出ている。ときどき薬缶の注ぎ口のかたちやダンベルのかたちが突きでているのはご愛敬だ。
 満足げに荷物を見下ろすと、ナナミは息をつく。
 ふと小さな不安が込みあげた。詰めこみすぎただろうか、と思う。これではまるで遊びに行くようだ。正軍師に見られたらお小言のひとつやふたつではすまないだろう。
「…ま、いいよね」
 クウヤが喜びそうなものをたくさん用意したのだ。服、乾布、紙と鉛筆、ムササビ、乾果物、干飯、干し魚に干し肉、薫製肉、それから――
 先ほど厨房で焼きあがった特製クッキーを持つと、彼女は太陽のようににっこりと笑った。
「完璧!」

「ぅえくしゅっ!」
 クウヤは衝動に駆られてくしゃみをした。
 いったんがくりと速度が落ちたが、それはすぐに挽回される。
 やはりここは北方なのだ、と彼は確認した。さっきなど、こんなに激しい運動中にもかかわらず、背筋を寒気が襲った。鍛えているはずの自分でもこれだ。
「それともナナミが心配してるのかな…」
 今は遠い姉を思って、クウヤは切なく胸を縮ませた。
 彼女に心配をかけるのは本意ではなかった。
 ただでさえ、受け入れがたい理由と経緯で幼なじみと別離したのだ。同じ痛みを感じているだろう姉に、さらなる心労を増やしたくはない。
 思い出すと切なさがあふれ、クウヤは速度を上げた。思考がどうしようもなく袋小路にはまると、意味のないことでたまったものを発散しようとする、あの行動である。背後で彼を追いかける兵士たちの、怨嗟に似たうめき声が起こったが、ひとりの世界に引きこもってしまった彼には届かなかった。
「…きっと心配してるよね」
 むしろうきうきしているとはつゆ知らず、心を痛めながら、クウヤは目の前にせまった石の壁のすぐ手前で直角に曲がった。曲がり角にきたというのに速度を落とさなかったため、危うく激突しそうになったのだ。
 少しだけペースを落として、クウヤは小さく肩をすくめた。
「ああ、危なかった…――ん?」
 そこでふと、彼は眉を寄せた。
 通路の隅で、何かが光ったように見えたのだ。クウヤは背後の気配にまだ距離があることを確認すると、やや速度を緩め、右肩を傾けてその光るものを拾いあげた。
「…紋章片?」
 再び走りだしながら、目を細めてそのかけらを見る。
 小指の先ほどのそれは、淡い青灰色に濁っていた。細かな罅が入っており、もともと紋章方面に興味があるわけではないクウヤには、何の紋章片なのかは判別できなかった。彼にわかることは、鍛冶屋が扱うにはもう少し大きくなければならないということだけだ。この程度では、属性の付加効果も望めないだろう。
「ま、いっか。もらっとこ…」
 貧乏性を発揮して紋章片を懐にしまおうとして、クウヤは口元を引きつらせた。視界に土色が迫るのが見えた――というより、視界が急速に土色に染まろうとしていることにようやく気づいたのだ。軽口めいた独白を止めて俊敏な動きで、彼は間一髪、すぐ目前に迫っていた壁に手をついて進路を変えた。
 がり、と紋章片か壁のどちらかが削れる尖った音を出す。
 もしかしたら完璧にただの石になってしまったかもしれなかったが、意地汚くきっちりと紋章片をしまうと、クウヤは乱れたペースを整えた。
「うーん、走り込みは無心でやらないと」
 走り込みではない。
 だがそれを忘れて、戒めのことばを呟くと、クウヤは遠くの景色を眺めやった。
 呼吸を次第に浅くしていき、足を送るリズムをつくる。顎は引き、脇は締め、背筋は力まずに伸ばし視線はただ前へ。踵ではなく膝から上で走る。
 前をぶっちぎりで走っていた侵入者の速度がやや落ちたのを見てとって、ようやっと角を曲がった後続の兵士たちが、勢い込んで迫る。
 しかし両者の差はたいして縮まらなかった。彼らも長時間の追跡に疲労していたのだ。そこでさらに速度をあげれば、その持続は難しく、あとはむなしくフェイドアウトするだけだった。
「ま、て〜…」
 へろへろとした声を最後に振りしぼって、何人めかが足を止めてへたばった。その声はあまりにも小さすぎて、クウヤには届かなかった。
 建物の中とはいえ、熱を持った頬や首筋に、向かってくる風が心地いい。
 それを感じながら、彼はただ走りつづける。
(この一歩一歩、すべてが僕の力になるんだ!)
 昂揚した頭でそう考えながら、クウヤは次第に、ただ走ることだけに没頭していった。
 彼を追う兵士たちは、すでに半分が脱落し、長距離走後の選手のごとく廊下のそこここに転がっている。
 しかし彼らをそうさせた本人は、自分に追っ手がいることをすっかり忘れて、ひたすら一階の廊下を周回しつづけていた。

 扉の外側を複数の足音が通り過ぎていく。
 やがてそれらが消え去るのを聞き届けて、ルックが振り返った。それに肩をすくめてみせて、イオは室内を見回した。
 窓のない部屋だった。昼にもかかわらず光を得られないその部屋に、明かりを灯すための燭台は壁に据えられていたが、もうしばらくの間、そこに蝋燭などが立てられた様子はなかった。
 広さは解放軍で、幹部が与えられていた個室程度のものだ。つまり、そう広くはない。さらに雑多なもので埋め尽くされているので、奥に進むのも一苦労だった。
「整頓がなってないな…」
 イオは呟いた。
 そう広くはない空間を占めているのは武器だった。
 剣の刃はそこここが僅かに欠けていたし、槍の柄はくたびれ、弓矢などもかなり古びている。だがそれらの刃は丁寧に研がれ、どうやら主婦の包丁のような方向性で大事に手入れされていたようだ。
 だが本質がどうであれ、それらは間違いなく殺傷能力を持っていた。
 靴の爪先で軽く棚のひとつを蹴ると、埃が落ちてくる。イオは顔をしかめ、頭の上の空間で手を払った。
「武器庫…ってほど立派なもんではないか」
「物置みたいな武器庫だね」
 棚の脇に置かれた木彫りのアヒルを横目で見て、ルックが鼻を鳴らした。
「しかし、さっきのは武器庫に来たんじゃないのか」
 首を捻って、イオはルックが寄りかかっている扉を見た。
 彼らの目的地はここではなく、廊下の先の大部屋だったらしい。この部屋に飛びこんできたとき、武器をみとめてハズレだったかと肝を冷やしたのだが、運がよかったようだ。
 だが、侵入者に対処するために武器を取りにきたのでなければ、いったい何のためにそちらの部屋を優先したのだろう。
 武器を持つより先に行くことが必要な場所。もしくは、平時に武器を携帯して行くことが許されない場所。
 イオに思い当たるその部屋の機能はひとつだった。
「もしかしてあの先が司令室か?」
「司令室って言うほど立派かどうか」
 先ほどのセリフを真似してさらに小馬鹿にする口調で言われて、たしかにそうかとイオは頷く。
「ま、ここの責任者がいるのかもな。いちいち会いに行く義理はないが」
 別に会いに行ってもいいのだが、この建物の制圧が目的でない以上、余計な厄介を背負い込む必要はなかった。
「だから、さっさと見繕ってくれない?」
 せっかく武器庫に辿りついたのだから、拝借しない手はない。たとえ普段の得物よりもレベルが落ちようと、少なくとも竹ぼうきよりはましだろう。
 邪険に扱われて嘆息してから、イオは返答した。
「はいはい」
 そうしてもう一度ぐるりと部屋を見回し、奥のほうへ進む。
 なるべく音を立てないようにしたのは、ルックが兵士たちが駆けていった部屋の音を探るつもりだと思ったからだったが、振り返ると彼にその気はないらしく、面倒くさそうに扉に背を預けていた。
 薄闇の中、その顔が青白いのを見てとり、文句は言わないことにする。離れた場所の音を聞くことは、そう楽な作業ではないはずだ。もともと体力も持久力もない彼のことだ、疲れているのは当然だろう。
 とりあえず扱い慣れた棍に見立て、槍などを手にとってみながら、ふとイオは思い出して尋ねた。
「そう言やさっきの、ひっかかってることって何だ?」
「ああ、…そう」
 少し面食らったようにしてから、ルックは頷いた。いつも剣だっている眼差しの力は弱く、やはり疲れているらしい。イオは失敗に舌打ちしそうになったが、ルックはそれには気づかずに、やや張りを失った声で囁いた。
「どうして転移の術だけが使えないのか、考えてたんだ」