神 聖 国 紀 行

「侵入者か」
 男が低く呟く。
 彼は泰然と、革張りの椅子に腰を据えていた。部屋の装飾は少ない。男の前には簡素で古びてはいるが丈夫そうなデスクが置かれ、鵞ペンとインク壺が並んで置かれていた。インクは薄暗い部屋の中、黒曜石のような光を帯びている。
 男と相対し、デスクの向こうで佇むもう一人の人間は無言である。一般の農民が着るようなくたびれた衣服を纏っている。しかしだからと言って、彼の表情までもが平凡であるわけではなかった。
 彼の目の前で、部屋の主は分厚い唇を歪めた。
「これは、我らを…いや、そうだ。そうだろうな」
 彼は独白を打ち消し、自分の脳内だけで結論を出した。それを見るもう一人の男は、ただ突っ立ったままだった。気にする様子もなく、部屋の主は彼を見た。
「逃がすわけにはいかない。わかっているな?」
「はい」
 しっかりとした声で答えた男は、背筋をぴんと伸ばして敬礼する。細い目には鋭い光が宿っていた。
 それを満足そうに見返して、部屋の主は言い渡した。
「行け。我らの太陽――ヒクサク様のために」

「…ちょっと」
「おいおい」
 不機嫌そうに眉を寄せて睨めつけてくるルックに、イオは首を横に振って見せた。自分の作為ではないというポーズである。それを信じたのかはわからないが、碧眼を眇め、ルックはまさに開きつつあった舌鋒を収めた。
 素通しの窓の向こうでは平和に鳥が鳴いている。甲高くよく通る音は、しかし今のふたりの耳を余韻すら残さず通り過ぎるだけだった。
 彼らが早すぎる邂逅を果たしてしまったのは、二階の廊下でのことだった。床一枚を隔てた場所から騒ぐ声が響いていたが、ここにはまだ人は来ていない。ちょうど建物の角のところで、ルックが背を向けているほうにはどうやら別の棟に続いているらしい廊下と階段が、そしてもう片側の廊下の先には木製の大きな扉がひとつあった。その角の、ちょうどイオの隣には、鉄で補強された重そうな扉がある。
 辺りの気配を探ってから、ルックは鋭い口調で問いかける。
「僕は屋上に行こうとしているのに、どうしてここにいるんだ」
 詰め寄られたイオはここぞとばかり、解放軍時代にそのカリスマ性を際だたせた秘技・憂いを帯びた遠い目を発動し、歌うように呟いた。
「不思議だな…」
「殴るよ」
 ためらいなくなめらかな動きでロッドを振りかざされ、イオは思わず間合いを取るために飛びすさった。
「濡れ衣だ!」
 濡れ衣、などと言うあたりが、イオ自身、多少なりともやましさを感じていることを表していた。だが幸いというべきか、焦っている両者はそれには気づかなかった。
「俺は外に雑魚がうじゃうじゃしてたから、いったん中に入っただけだぞ」
「ならなぜ二階に来ている」
「…不思議だよな」
 繰り返して、イオは頷いた。実際、彼自身にもいまいちよくわからない経緯で二階に来てしまったのだ。

 クウヤとルックに攪乱役を任せ、足の確保のためにひとり外に出たイオは、しばらくそこらをうろついて武器になりそうなものを探した。見つけた物置で竹ぼうきを確保すると、束ねられた細い枝を取り払い、長い支枝だけにする。ちょうど棍と同じような長さで、しっくりとまでは言わないものの、手に馴染んだ。
 イオは会心の笑みを浮かべてから、ふと自分の姿に気づく。
 とても間抜けだ。
 落ち込みながらも、彼は様子を窺いながら厩舎のほうへ向かおうとした。
 しかし、予想以上に、厩舎周りに配置された人員は多かった。ひとりひとりはこんなうらぶれた城に侵入者など、と困ったような半笑いを顔にくっつけていたが、そんなものでも集まられると厄介だった。しばらく手の薄いところを探してはみたが、この人数ではさすがに死角がない。
 厩舎までの道のりは、障害物もなく拓けている。昼日中のことで、そこを見とがめられずに行くことは不可能だと思われた。
 仕方なく、建物の影を移動して、イオはいったん中へ戻ろうとした。
 しかし、目をつけた素通しの窓の側に寄り、様子を窺おうとしたちょうどそのとき、
「…!?」
 内側の廊下を走っていくクウヤと、彼はばっちり目を合わせてしまった。
 一瞬のうちに混乱と焦燥がふたりの間を飛び交った。
『おいおいなんであんたまだそこにいるんですか!』
『いやお前こそ!』
――のようなことを言いたげな視線が交わされ、速度を緩めずにクウヤは走り去る。
 そしてその後ろに続くのは、もちろん兵士たちの姿。
 咄嗟にイオは、クウヤが走り去ったのと逆の方向、つまり兵士たちに向かって、建物の外壁に沿って走り出した。
 内外の高低差がないつくりの建物だったため、迫ってくる兵士たちの幾人かがそれに気づいて思わず速度を緩め、後ろから来た何人かを堰き止める。そのうち二、三人が将棋倒しになったのを見てイオは舌打ちした。この期に及んで、鍛え方が悪い、と思ったのである。
 うろたえていた兵たちの一部が、廊下を逆戻りし始める。
 それを見て取って、イオはさらに速度を上げた。すぐに角に迫る。それを曲がると、その向こうのほうに、建物に添えるように屋台が作られていた。先ほど竹ぼうきを見つけた物置である。
 イオはそこに全速力で突っ込みながら、元竹ぼうきを取り出した。それを構えて適当に目算し、地面に突き出す。次の瞬間、彼は屋台の上に乗っていた。
 みしり、と風雨を避けられるだけの脆弱な木板が悲鳴を上げる。
 それを無視して、今度は二階の窓の角に元竹ぼうきを引っかける。天井が低いことが幸いだった。組まれた石の取っかかりに足をかけ、窓に突き入れた元竹ぼうきを支点にして一気に窓枠に手をかけた。嫌な音を立てて軋んだ元竹ぼうきを放すと、懸垂の要領で身体を持ち上げ、中に入る。
 下のほうから兵士たちが騒ぐ声が聞こえた。彼らにはイオが二階に上がるところが見えなかったはずだ。侵入者が唐突に消えたように感じられたことだろう。
 やっぱり日頃の鍛錬は重要だなあ。
 そんなことを思いながら、とりあえずくの字に曲がった元竹ぼうきを割る。そのうちの片方を捨てて片方を持ち、人がいない廊下を走り、角を曲がったところで、彼はルックに出くわしたのである。

「…と、こういうちょっとかっこいい経緯がだな!」
「回りくどい」
 簡単に説明し終えて胸を張ったところで冷徹な一言をくらい、イオは落ち込んだ。突っ張っていても優しさが欲しいお年頃だ。
 だが、優しさの欠片を持ち合わせていないルックは容赦がなかった。
「そんな無駄な体力使う意味がどこにあるんだ」
「…み、見栄えとか」
「竹ぼうきで?」
 ささやかな抵抗を粉砕して、ルックは鼻を鳴らす。
「 それはそれは。華麗なことで」
 嫌味ったらしいことこの上ない。
 そう言われればまったくその通りなのだが、深く考えたわけでもなく適当にとった行動に、なぜこのような猛攻をかけられるのだろう。イオはむなしく落ち込んだ。右手に持ったままの折れた元竹ぼうきが哀れさを助長する。
「そんなことより、イオ」
 自分で突き落としておいてそんなことと片づけ、ふとルックが言った。
「さっきからひっかかってることがあるんだけど…」
「なんだ」
 イオにも気になっていることはあるが、とりあえずルックの言葉を優先することにする。言葉を選び、彼が発言しようとしたとき、その表情がさっと変わった。ほとんど同時にイオも反応して、ふたりは顔を見交わした。
 廊下の奥から複数の人間の気配がやってくる。
 普段ならもっと早くに気づいていたはずなのに。イオは舌打ちした。やはり調子が狂っているようだ。事情が事情だから混乱するのは仕方ないが、一夜が明けてもこの様とは不甲斐ない。
「この先の突き当たりは…」
 気配が迫ってくるのと反対側の通路をルックが差した。
「けっこう広い部屋になってる――こっちはそうでもない。どちらも人はいないけど」
 僅かな時間で風を使って探ったらしい。
 彼の指の先に見える扉と、ふたりがいるすぐ側にある普通の扉が、今の退避路である。だが、さすがにルックにも、両方の部屋の中に何があるかはわからない。
 兵士たちはどちらの部屋を目指しているのか。
 何秒かの逡巡で時間は尽きた。
「こっちに」
 今からではそれ以外に取る方法がない。声が唱和して、すぐ側にあった扉にふたりは駆け込んだ。