神 聖 国 紀 行

 三人の行動は、各方面にどうにか面目を保てる程度には迅速だった。
 まずイオが向かってくる兵士に椅子を投げつけた。正面の若者がそれをまともにくらい、悲鳴を上げて後ろに倒れ込む。それに残りの若者たちが怯んでいる隙に勝手口から転がり出し、そのまま全速力で走り出す。
 背後からは迫力のない罵声だけが飛んできた。
「あぁぁっまだお鍋ひとつ手つけてないやつがあったのにぃぃ!!」
 走りながら悲壮な声を出すクウヤに、イオは心底感心した。
 彼らはそのまま外壁に沿って建物を回り、窓から再び内部へと入り込む。そしてその勢いで、先ほど兵士たちがやってきた道を辿り、台所の前へとイオが突っ込んで行った。
 彼の行く手には二人の兵士が呆然とした様子で立ち尽くしている。侵入者を追う人間と責任者に報告する人間の二手に分かれたらしい、その後者のほうだろう。それを首を殴って昏倒させると、イオは足音を立てずに台所の気配を窺った。誰もいないことを確認して、窓の下に身を伏せていたふたりに手招きをする。
 彼らを追う役の兵士たちは、クウヤが残した叫びの余韻の方向へ駆けていき、そのまま窓の外を通り過ぎた。
 三人は再び台所に戻ると、起きっぱなしにしていた食糧をひっ掴み、クウヤがテーブルの上に残る料理に別れを惜しむのを引きずると、そこを通り抜けた。
 外庭に出ると、イオはルックを見た。
「厩舎の位置はわかるか?」
「……」
 言われるまでもなく、ルックはしばらく眉間に皺を寄せて黙り込んでいたが、やがて鋭く舌打ちした。
「駄目だ。騒がしくてわからない」
 それから周囲を一瞥し、
「たぶん、あっちのほうだとは思うけど」
 常にないような、あやふやな言い方をする。
 彼は風が運ぶ物音や声をたどって、厩舎の位置の検討をつけている。ということは、それが紛れてわからなくなるほど、騒ぎが広まっているということだ。おそらく、先ほど走っていった連中がそれを広めているのだろう。
「あー、くそっ」
 一度だけ苛立ちを吐き捨てて、イオはクウヤを睨んだ。
「そりゃ発端は僕ですけど、僕だけが悪いんじゃないですよ」
 果敢に言い返す彼の指摘は的を射ていたが、イオは無視した。クウヤが恨めしげな視線をやる。
「じゃ、とりあえずそっちに…」
「おい、そこ!!」
 行こう、と言い終わる前に、建物の影から中年の男が出てきた。とても友好的とは言えない雰囲気に、三人は目も合わせずに走り出す。彼らの背中には再び罵声が浴びせられた。
 少し息を切らせながら、ルックが呟いた。
「――建物を突っ切ったほうが早いみたいだ」
 その言葉が終わった途端タイミングよく視界に飛び込んできた戸を、一行は慎ましく開いてくぐり、丁寧にそこらにあった箒をつっかえ棒にして奥へと走り去った。

「見つからないのか…」
 軍師の言葉はあまりに重かった。
 その声に潜む疲れに敏感に反応し、ナナミは縮こまる。ああ、この声。
(めっきり老け込んだころのじいちゃんの声だ…)
 ――いつでも健気で、そして何気に失礼な娘だった。
「はぁ…できる限り南のほうも捜索させているのですが…」
 答えるクラウスも、いつも穏やかな容貌を曇らせている。言いにくそうに口ごもったあと、彼は誰もが恐れている懸念をついに持ち出した。
「それで、もしや……王国領に、」
「不吉なことを言うなぁっ!!」
 途端、悲鳴のようにシュウが叫んだ。
「そんなことはあってはならないんだ…そんなことは…」
 もはやノイローゼ。
 同じことをぶつぶつと繰り返し呟き始めた正軍師に、一同は引いた。その中の何人かが、こっそり生え際に目をやる。とりあえずまだ安泰そうであった。
「捜索範囲を広げますか」
 アップルが窺うように訊いた。
 とはいえ、もうすでに、同盟軍の力が及ぶ範囲はほとんど調べ尽くしている。虱潰しにとまではいかないが、捜索の傍らでいくつか犯罪を摘発できたくらいには徹底した。だが、それでも見つからなかったどころか、手がかりひとつ掴めなかったのだ。
 シュウは疲れを押し隠して、籠もった声で命じた。
「いや、…各集落を、もう一度重点的に捜すように」
「あの」
 ナナミは思い切って、口を挟んだ。親衛隊に籍を置いてはいても自分は一般兵で、この場にいるのを許されているだけでもありがたいのだとわかっていたが、じっとしているのは性に合わなかった。
「なんだ」
 じっとりと見返してきた軍師に、ナナミは決意の目を見せた。
「私も捜しに行かせてください」

「どうしよう…」
 クウヤの呟きを聞きとがめて、先を行くルックが、声を出すなと言うように顔をしかめて見てきた。だがクウヤは気にしなかった。今重要なのは、彼らが歩いている廊下や、時折現れる扉たちだ。
 彼が現在のブームに乗っ取ってわざとらしく、しかし半ば本気で目頭を押さえていると、見かねたのか、ルックが声を抑えて話しかけてきた。
「…なんだって君がそんなに気にするんだ」
「だって…だって…」
「あぁもうやめろ、莫迦。うっかり同情しちまうだろうが」
 イオが小さく叱責した。
 クウヤはまた俯くと、さめざめと声を出さずに――器用なものだが、まさにそんな風に嘆き始めた。もはや諦めて、ルックが嘆息する。
 今思えば、外観はまだましだったのだ。
 たとえば石壁が崩れていても、外敵を防ぐことはできる程度の頑丈さは残っていた。鉄板が錆びていようと、すぐさま建物のすべてが崩壊するわけではない。風車がもの悲しさを演出していたとしても、それは建物の機能にはなんら影響はないのだ。
 しかし、建物の中は、悲惨だった。
 具体的な状況描写をすることがためらわれるほどはっきりと、悲惨なのだ。ところどころに残る生活の気配から、ここに人が暮らしていることはわかった。その気配が、余計その悲惨さを増している。
 罅が入り縁が欠けた水瓶が、扉にかけられた傷んだ木製のプレートが、掲示板に貼られた黄ばんだポスターが、それぞれ絶妙な共鳴音を奏でながら、クウヤの今は必要ない琴線を刺激する。
 耐えきれず、クウヤはすすり泣いた。
「…こ、こんな……こんなのって…ッ」
「静かにしなよ」
 かなり一応、というようにルックが宥める。彼自身も、この惨状に胸の痛みを感じないわけではないのだろう。
 ぼろというなら、初期の解放軍の根城も現在身を置いている同盟軍の本拠地もたいして変わらない。
 だが、この建物の『使い古された』感は、どうにも調子を狂わせられた。うらぶれた、というべきだろうか。人の気配はあるのだが、貧乏所帯が必死に高級感を出そうとしているような痛ましさが各所から滲み出ているような気がするのだ。もちろん気のせいであるとも考えられるのだが。
 同情する理由はないはずなのに、胸が苦しい。
「もうすぐ首都って位置なのに…なんでこんな寂れてんだよ、ここ」
 忍び込んでおいて、イオが厚顔に文句を言う。
「兵士の質も悪いし…」
「まだ言ってんですか」
 手のひらに泣き伏していたはずのクウヤは、思わず真顔ならぬ真声で突っ込む。しかし相手は怯まず、当然のことを言うように反論した。
「当てこすりじゃない。首都に近いのに兵士がああ無能だってのは変だろ。やたらと素人っぽさが残ってるし…」
 首都に近い都市の兵が皆有能なのかと言えばそうではないが、指揮官のひとりくらいは、中央の息がかかった人材が派遣されるだろう。しかしそれにしては、この寂れ具合は納得がいかない。
「それにさっきのあいつらもたるんでやがるし」
「たるむ…」
 さっきのあいつらとは、台所で出くわした兵士たちのことだろう。言われればそうなのかもしれないが、幼い頃から厳格に育てられてきたイオに言われるのはなんとなく、畑違いの非難というやつである気がして、クウヤは眉を寄せた。
「ぐだぐだ言ってないで、さっさと行く――」
 ルックが苛々と促す、その声を途中で切った。
「何」
 声を低くしてイオが尋ねる。
「囲まれる。あっちに」
 風を読んだのか、示された廊下を通って行くと、少し大きめの空間に出た。上の階へ通じる階段と、表に出る扉と、別の場所へ通じている廊下。いくつかの方向から集団の気配がした。
「別れるぞ」
 イオがクウヤを見て言った。問題なのはルックだった。転移が無理でも、荷物がないなら風を使って、たとえば屋上から下へ降りることもできるだろう。固まれば逆に、体力がない分足手まといになる。どうせなら分散して攪乱したほうがいい。
「じゃ、僕はあっちに」
「厩舎は抜けてあちら側の、城壁沿い」
「了解」
 ひらりと手を振って、イオが正面から出て行く。その背中を一瞬視界に納め、階段を上がっていく萌葱色から視線を逸らすと、クウヤは右手の廊下へと走り去った。