「うわわ」
「おお」
「……何、それ」
気の抜けた歓声に、ルックが顔をしかめた。
「いや、感動して……おいコラ、お前一人で食べようとしてんじゃねえ」
テーブルに突進しようとするクウヤの襟首をイオが掴む。
だが、クウヤはとかげの尻尾切りの要領で大事なはずのスカーフを見捨て、一瞬後には牛乳スープのあたりに食らいついていた。
手の中に残されたスカーフをイオは思わず凝視する。
「…思い出ってなんだろう」
「あんたも食べるんなら早くしてよ」
もうすでに満腹なのか、それともクウヤのあまりの勢いに食欲をなくしたのか、促すルックにイオはスカーフを手渡し、自分もテーブルに向かった。
燦然と並べられた料理は、かなり誘惑度が高い。
鍋にたっぷりと沈む牛乳スープや豚骨でだしをとった野菜煮込み、茸と野菜の炒めもの、ぶつ切りにして煮込まれた肉、卵粥。とにかく食べられるものにただ味付けしただけというものも多い。大半が汁物で、そこら中からかき集めた大小の鍋いっぱいに満たされている。
食欲をすばらしく刺激する光景だ。
直訳すると、よりどりみどり、出血大サービス。
料理ができるとは知っていたが、まさかこれほど多様なちゃんとしたものが作れるとは思っていなかった。しかも、暴走寸前だったクウヤが暴れ出さない短時間で、だ。
イオは素直にルックを尊敬した。
ちなみに、これらができあがる過程でなぜクウヤが彼らを襲わなかったのかと言えば、料理の途中で喧しくなったためにルックに部屋から放り出されていたからである。
そうして今やっと、まだ湯気を立てているそれらと感動の対面を果たしたクウヤは、すでに牛乳スープを制覇しようとしていた。
いったいあの幼さを残す細身の身体のどこに詰め込んでいるのだろう。
などとイオが思っている間に彼は次の鍋に取りかかっている。驚異的な速度である。そんなに急に詰め込んでは胃がどうにかなってしまうのではないかと、イオは少しだけ心配した。そしてすぐに空腹を思い出して、心配の代わりに対抗心を燃やした。
とりあえずイオは、負けないようにお玉を手に取った。
それから、思いついて振り返り、
「嫁に」
ごっ
と、見澄ましたようなタイミングで、鈍い音がした。
「……」
麺棒が炸裂した頭を撫でて、イオは仕方なく、前線に参加した。
料理を途中まで平らげると、さすがにペースも落ちてくる。
クウヤも食欲が満たされたことでなんとか落ち着き、料理の味を認識してルックの腕に賛辞を送る程度には理性を回復していた。楽しい会話は食事をさらに旨くする。いいことだ。
流しの前にある格子がはまった窓から、明るい日差しが差し込んでいる。
穏やかな昼下がりだ。少し冷めたスープを、ルックが温めなおしている。右手に持ったお玉でスープをかき混ぜながら頬に垂れた髪を耳の後ろへやる仕草に、イオはなんとなくにやにやした。
彼の向かいで、クウヤはさっきまでの鬼気迫る食いっぷりが嘘のように行儀良く箸を使っている。
「平和ですねえ」
彼はそう呟いて、幸せそうにもやしを食む。
それに内心同意して、のんびりと粥を掬いながら、イオはふと、何かを忘れている気がしてきた。
「…なんだったかな」
「何がですか?」
独り言を聞きとがめて、クウヤがきょとんと尋ねてくる。
「なんか、忘れてる気がするんだよな」
「年ですかね」
「黙れ」
イオは手近にあった布巾を正面に投げつけた。
「…ぶみゃあ」
踏みつぶされた猫のような悲鳴を、布巾がテーブルの上に落ちてから、半眼でクウヤは呟いた。
「ええいわざとらしい」
「わざとらしいの、ブームなんです」
胸を張るクウヤを無視して、イオは粥を食った。旨い。魔法使いよりも料理人になったほうがいいかもしれない。いやそれよりも、
「…あ、やめとこ」
獣の勘で危険な思考を回避して、彼は行儀良く粥を片づけることを再開した。同じ過ちを二度は繰り返すまい。クウヤが胡乱な眼差しを向けてきたが、無視した。
暖めなおした鍋を手に、ルックがテーブルに戻ってきた。
その瞼が僅かに落ちかけているのにイオは気づく。そして気づくと同時に、眠気が伝染してきた。また、食事後――正確には食事中だが、その日が差している昼下がりという、昼寝には最適の時間なのである。
「…一眠りしようかね」
イオは呟いた。
その低い声を聞きつけて、クウヤが的はずれな抗議をする。
「あー、ずるいですよ。僕だって昼寝気分なのに」
「あんたら、この量を残すつもり?」
自分で作っておきながらうんざりしているルックに、クウヤは真顔で返した。
「ううん、ちゃんと食べ終わってからだけど」
ルックがほとんど無意識の所作で口元を抑えるのに倣い、自分はもうさすがに無理であります、とイオは口に出さずに申告した。
クウヤはたぶん全身が胃袋なのだ、そうに違いない。すると肌を切れば血の代わりに胃液が出てくるのか、などと眠気のあまり妙なことを考えてしまい、かなり気分が悪い思考回路に自分で嫌気が差した。こんな馬鹿なことを考えてしまうのは、やはり眠いからだろうか。
「駄目だ、やっぱり寝よう…」
ぼそりと言い置いて、イオは空になった粥の器をどけ、テーブルに突っ伏した。
「行儀が悪いよ、坊ちゃんのくせに…」
呆れたようにルックが皮肉る声を、半ばぼやけた頭で聞く。
放っとけ、どうせ親不孝ものだ。
そう思いながら、イオはゆっくりと目を閉じる。
と、そのとき。
「あーもう、緊急だかなんだか知らんが、飯時に呼び出すなよなあ」
「もう冷めてるぜ、絶対。信じらんねぇよ」
湧き起こる明るい笑い声とともに、若い男たちの愚痴る声が聞こえてきた。どうやらこの建物の住人のようだ。長くてかったるい集会でも終わったのか、開放感に満ちあふれている。
イオは聞くともなしに、それをまどろみの中で耳に入れた。
「できたて食えると思ったのにさ。なあ?」
「しかも話長ぇっつーの!」
「そうそう、今日はいつもの三割り増しくらい、長かったよな」
「てかさ、あれ、本当かなぁ」
「あれ?」
「ああええと、間諜?」
「そうそう、それ。スパイスパイ」
「まさかぁ、こんな田舎にンなたいそうなもんが来るかっての!」
だよなあ、ははは。
喧しい声はだんだん近づいてくる。
彼らはここ――台所を目指しているようだ。ここに来ると言うことは、もちろん、彼らも食事を取りに来たのだろう。
腹がふくれたこともあり、微笑ましい気持ちで、イオはその会話を右耳から左耳へと素通りさせた。昔は自分も、こんなくだらないことを話していたと思うと、なにやら感慨のようなものまでこみ上げてくる。
親友の面影が脳をよぎり、ふと、胸が苦しくなった。
あのとき、あのただどうしようもなく流されてしまった時間の中で、ほんの些細なことでも何かが違っていたら、自分たちも今でもこうしてのんびりと笑い合っていたかもしれない。
顧みても仕方ないことを考え、イオは沈んでいく思考をもたげた。このまま眠ると厭な夢を見るような気がして、少しずつ頭が覚醒していく。
「あれ、起きるんですか?」
気配を感じて、まだ食べているらしいクウヤが声をかけてくる。
それに生返事を返して、イオは額を押さえた。そうだ、台所で寝るのはよくない。寝台に行けばいいのだと、椅子を後ろにやり、そこまでの道程で眠ってしまわないように眠気を覚まそうと眉間に皺を寄せる。
そうしているうち、人の気配が台所の空気を騒がせた。たらたらと歩いていたその声の持ち主たちが、ついに入り口に辿り着いたようだった。
「まあ、あっためなおせばいっかぁ」
一人が、背後の仲間たちを顧みながらそう言って、前を向いた。
その動きが、ぴたりと止まる。
思考停止。
彼の目に映ったのは、なにやら大量においしそうなものを囲んで椅子に座ってくつろいでいる、見知らぬ少年たちの姿だった。
その少年たちも、きょとんとして彼を見返している。
立ち止まった彼にぶつかった仲間が、後ろから不平を言った。
「おい、何してん……だぁ?」
そうして彼もまた、目を見開いた。
その後ろで、同じようなことを言おうとした他の仲間たちも目を見開く。その口があんぐりと開けられる。
それを見ながら、不意に、そして今更、三人は思い出していた。
「……」
「……あ、」
「……そっか」
そう言えば、ここは。
「あ、あーっ、し、侵入者だぁ!!!」
…人様のお宅であった。