厨房には食欲をそそる匂いが籠もっている。
しかしそれはすでに残滓でしかなく、発生源は今まさに、流しに突っ込まれて洗われようとしていた。盥に溜められた水に油が溶けていく。
それを前にして現デュナン統一同盟盟主は、空腹を表したいのか、
「ぐー」
と呟いた。
わざとらしい。
元トラン解放軍の軍主は、さらにわざとらしくそれを無視して、もうひとりの同行者に声をかけた。
「なんか作れそうか?」
「へたばってないで、何か手伝ったらどうなんだ」
ばたばたとそこら中の棚を開け閉めしながら、苛立ったようにルックが返した。収穫品がどんどん調理机の上に積まれていく。
厨房の隅の小休止用のものらしい丸い小さな椅子に座って、イオはにやにやと笑いながら肩を竦めた。
「魚なら任せてくれ」
「あぁはいはい、魚以外なら役立たずなんだろ」
「いや、それほどでも」
「褒めてない」
真顔で言って、ルックは、探し出した包丁を構えた。
「捌かれたくなければ黙ってろ」
イオは両手を上げた。
「これ、食べていい?」
萌葱色の法衣の端を引っ張って、野菜の入った籠を見つめながらクウヤが尋ねた。すでに半ば以上、手がそちらに伸びている。まるで母親に甘い菓子ををねだる子供のようだ。
ルックは本当に、優しい母親のように微笑んだ。
もちろん、口にした内容はその微笑みとはかけ離れていた。
「代わりに君を捌いてもいいんなら、僕は構わないよ」
白く繊細な手にはいまだ包丁が握られている。
「…ごめんなさい」
謝って、それでも未練があるのか、クウヤは野菜籠を見やった。
野菜籠だけではない。厨房には様々な食材があった。野菜籠の隣には、まだ藁のついた卵が並べられていた。牛乳の入った大きな瓶も、色鮮やかな果物も、何種類かの茸も、味に変化を付けるための調味料もかなり豊富にあった。
クウヤは虚しく呟く。
「お腹減った…」
「静かにしろっ!」
鋭い叱責が飛んで、彼は犬のように項垂れた。
時を遡り、流し前の軍主より半時前。
三人の不可抗力――疑問系ではあるが、とにかく自分たちの意志に反して旅を強いられている旅行者たちは、城壁をよじ登り、降りたところでいきなりもめた。
「ごはんごはんごはん」
何とかの一つ覚えのようにクウヤが喚いたのである。
「腹が減ったら戦ができないんですよ」
別に戦に行くわけでもないのにそう言って厨房行きを強硬に主張する彼に、無闇に侵入するのが嫌だと渋ったのはルックだった。彼にしてみれば、因縁のある敵地でそんな危険な行動を取りたくないのだろう。
イオは腹が減ってはいてもルックの意見に反対する気はないらしく、どっちつかずの姿勢を見せた。
しばらくのちょっとした心温まるやりとりの後、
「厨房のある場所がわかるなら同意してあげるよ」
とルックが嫌味を言うと、
「あっち」
と、クウヤはあっさりと方向を示した。
あまりにも自信に満ちあふれたその態度に毒気を抜かれて、一行はそちらへ向かった。
すると、井戸と水場と勝手口とおぼしき扉があり、その脇には、生ごみを捨てるためのバケツがひっそりと佇んでいた。
そして扉を開けると、果たして厨房は、見事にそこにあったのである。
「嘘だろ…」
唖然としたルックは、イオに肩を叩かれて我に返り、なんでそんなことがわかるんだとぶつぶつと文句を言っていたが、クウヤも馬の足音を聞き分ける相手にそんなことを言われたくはなかっただろう。
もっとも、鍋の中で湯気を立てていた肉汁を飲み尽くすのに忙しく、その文句を彼は聞かなかった。
このとき、他のふたりがそれに気づかなかったのは、らしくない失敗と言える。
貯蔵庫なり棚なり、ぱっと見ではわからない場所から食料を奪ったなら、気づかれるまでに多少の時間は稼げただろう。だが、すでに用意された料理がなくなるなど、不審なことこのうえない。
しかしそんな事実は、三大欲の一つの前には塵芥も同じだった。止めるどころか、彼らは肉汁やら麺麭やらを片づける作業に荷担したのだった。
幸いというか、厨房に人はいなかった。
どうやら今、この建物の中にいる人間は皆どこかに集まっているらしい。ここぞとばかりに身体ばかりは成長期の少年たちは、昼食にでも作られていたらしい料理を食い尽くした。
食い尽くしたあとにクウヤが言った一言は、
「これでなんとか三分目くらいには…」
だった。彼は再び横暴な先輩に殴られることとなった。
食べ終わってから彼らは、本来この料理を食べるはずだった人間に思いをはせたが、当たり前だがそんなものは誰かさんの腹の足しにはなりはしない。
感傷を軽い一降りで打ち払って、彼らは食料を漁りにかかった。
干し肉や乾飯などの保存の効く非常食や調味料をありがたく拝借しておいて、さてあとは馬を奪おうという段になって、お腹が空いたと言い出したのは、もちろんクウヤだった。
このときにはどうにか理性を取り戻していたイオは、もちろん
「お前さっき散々食べただろうが!」
と突っ込んだが、
「僕は食べたんですけど、僕の腹の虫が、お腹が空いたって言ってるんです」
他人事のように宣う現役天魁星に撃沈した。
なんだか途方もなく疲れて敗北を喫したふたりは、仕方なくその場に留まったが、あいにく、調理済みのものはすべて彼らの胃に収まったあとだ。
そこで、戦時以外は師匠の飯作りに従事している魔法使いにご出陣を願ったわけである。以下冒頭。
クウヤが棚を漁るルックの足下に懐いている。
イオはそれを、黙って眺めるだけだった。さすがに彼も困惑していた。なぜクウヤがあんな子供返りをしているのかわからないのだ。
そもそも、こちらに来てしまってから、なんだか調子が狂っている。
ルックが顔に似合わず粗雑なのはいつものことだが、いつも以上に雰囲気が硬い気がする。最初は因縁のある場所だからだろうと思っていたが、どうもそれだけではないようだ。
クウヤは、断言できるほど親交が深いわけではないのだが、それでもどこかおかしいと思う。
もちろん自分自身もそうで、奇妙な鈍さが、身体にも思考にもまとわりついている感じがあった。空間に馴染めていないような違和感がつきまとっていて、気持ちが悪い。
腹の底から焦燥が沸いてくる。本当は、座っているのさえ辛い。だが、そんなときこそ落ち着かなければいけないことを、イオは知っていた。
ルックが何度目か、クウヤを蹴りそうになって、舌打ちした。
「鬱陶しい!」
こういう容赦のないところはいつも通りなんだけどなあと、イオは虚しく考えた。
渋る部下に給料カットを仄めかして無体を通した現上司は、その足下から追い払われて、また流しに突っ込まれた鍋を眺めた。
それは、先ほど彼らがかっ食らった肉汁が入っていた鍋である。
「…ルック、まだ?」
「まだに決まってるだろ!」
つい先ほど材料を物色し終えて洗ってまな板の上に乗せたばかりで催促されて、ルックは包丁で大根をぶった切った。へたがすっ飛んでクウヤの前にぼちゃんと落ちる。
頬に跳ねた飛沫を拭いながら、彼はぼんやりと言った。
「…お腹空いた」
「いい加減にしてお前ちょっとここに座れ。な」
見かねたイオは手を引いて、彼を丸椅子に座らせる。
素直に従って、クウヤはその上で、器用に足を抱えて縮まった。体内で胃が揉まれたのか、今度は擬音ではなく、ぐぅ、と情けない音が鳴る。
彼から逃げるようにして、イオは大根を仇のように叩き続けるルックに近寄った。
「なぁ…ちょっとあいつ、おかしくないか?」
「いつもおかしいよ」
「……」
いやそうじゃなくて、と言おうとして、イオは思いとどまった。
人参に手を出したルックの表情が、そこはかとなく鬼気迫っていたからである。
「あー…ええと、何か手伝うか?」
あの一番怒っているときに見せる、女神のごとく慈悲深い微笑みとは別の意味で、怖い。追いつめられた感じが、とても、怖い。なんたってオプションに包丁がついている。
危険を察知したイオは、下手に出てとりあえず笑顔を作ってみた。
ルックはそれに応じるように、にっこりと、作ったことが見え見えないい笑顔を見せた。それで心拍数が上がる自分が、少し切ない。
「黙って座ってろ」
…何かがおかしいから仕方ないのだと、誰にともなくイオは言い訳した。