イオの第一声は、
「貧相」
というなかなか容赦のない一言で、クウヤも完全に同感だった。
ルックの表情は読みとれない。
緑の中の城壁の前に、彼らは突っ立っていた。
鼠色の石壁が、ところどころ欠けて、崩れている。長い年月を風雨に晒されて色味の落ちた石の表面を斑に苔が覆い、細い隙間からは雑草が伸び、見上げた塀の天辺には、赤茶に錆びた鉄板の補強がかろうじてへばりついていた。張り巡らされているのは天を向く槍の整列ではなく、ところどころが破られた有刺鉄線だ。
鉄板の間には、一本の風車が差し込まれていた。からからと、場違いなようでしっくりくる、もの悲しい音を立てて、赤い羽根が回っている。
――クウヤ、きれいだね。
――そうだね、ナナミ。
――どれどれ、どの色にするんじゃ…
幼い頃の記憶が蘇り、クウヤは思わず目を逸らした。
彼が額につけた輪を買ってもらった縁日のとき、ナナミは風車を手に入れたのだ。朱色と黄色に塗り分けられたそれは、回ると橙色に染まった。今でも道場に置いてあるはずだ。
目の奥から熱いものが込み上げてくる。
慌てて目頭を抑えながら、クウヤは、ゆっくりと頭を垂れた。今、こうして流転の中に身を置いてもなお、昔のことを思い出すだけで胸が暖かくなる。それはとても幸福なことに思えた。
「…そっとしておいてあげませんか?」
この風車の見守る中で、何らかの罪を犯すのは心苦しい気がする。
そう考えて、彼はそんなことを言ってみたのだが、
「いやだ」
悲劇の舞台で万人を共感させうるような情感の篭もった声を無視して、イオはいつも通り、無駄なほどきっぱりと断言した。
クウヤの中でぷつりと何かが切れた。
「……人の情ってもんがないんですかあんたにはァ!」
「なっ、おまえな、なんでいきなり人非人扱いされにゃならんのだ!」
腹の空きも重なって唐突に激高したクウヤに、イオがやや腰を引けさせながら言い返す。この場合、彼の言い分は正しい。しかしなぜか説得力を欠いた。
クウヤは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「僕の暖かな思い出を一言で片づけるのが悪いんです」
「知るか…」
疲れたようにぼやいて、イオは視線を逸らした。
その先には、いつまで立っても変わらない、古き切なきボロ城壁がある。周りの木々に上から覆われ、枝を伸ばされて、まさに無用の長物むしろ有害、と化していた。門構えが浮いている。
解放軍の城だってこんなに頼りなげではなかったはずだ――いや、これよりは立派だった。
クウヤは先輩の姿に勝手なモノローグをつけてみた。イオは対抗心が芽生えたのか、じっと城壁を睨みつけている。単に、素でそういう喧嘩を売っているような目つきなのだとする説もあるが。
と、今まで沈黙を守っていたルックが呟いた。
「馬の声が聞こえる」
「今朝の?」
「そんなの、これだけでわかるわけないだろ」
呆れたように言われ、クウヤは、はたして蹄の音と嘶きではどちらがどう違うのだろう、足音と声では後者のほうが区別をつけやすいのではなかろうか、と考える。どんな環境で育ったか知らないが、ルックはたまに、ちょっとずれている。
クウヤはそんなことを思ったが、イオのほうは、気にした様子もなく続けた。
「じゃ、ここが奴らの本拠地か」
「そんなたいしたものかはわからないでしょう。一時的に借りてるだけかもしれませんし、あの男の人の家なのかもしれないし、むしろこれ全部が厩舎とか…」
「そんな壮大な厩舎があってたまるか」
即座に言い返して、彼は隣を見る。
また耳を澄ましていたルックが、他のふたりが見守る中で、やがて、諦めたように肩の力を抜いた。
「騒がしすぎてこれ以上わからない」
忌々しげに言うと、彼は目を開いた。
「人間は、少なくとも二桁はいる。馬も何頭かいる。それに、鶏の声も聞こえ」
「えっ鶏肉?」
歓喜に満ちた素っ頓狂な声が、言葉を遮った。
ルックはしばらく黙ってから、言いにくそうに口をぎこちなく動かした。
「……まだ生きてるよ」
ぱっと目を輝かせたクウヤは、その答えに目に見えて落胆した。いつも明るい光を湛えている榛色の瞳をぎらぎらと輝かせて、ぼそりと呟く。
「そっか…じゃあ、肉にしないといけないんだな、面倒くさいなあ…」
ふふ、とかわいらしげに笑う。
どっちにせよ食べる気満々の彼に、他のふたりはとりあえず、沈黙を貫いた。その年齢で一軍以上を率いる将として、まさに賢明な判断だったと言える。
彼らは欠食少年から目を逸らすように顔を見合わせて、目線で密かに会話し、責任を押しつけ合ったが、どうやら英雄のほうが根負けしたようだ。
顔を上げると、彼は重々しく宣言した。
「では、我々はここに、相手に平和的かつ友好的な態度を求めつつ迅速をもって隠密のうちに馬と食料を徴発する計画を実行する次第である」
「盗みに入るんですか?」
無駄に麗々しい修飾語を使った宣言を、クウヤは見事に粉砕した。
イオはしばらく黙ったあと、もう一度ルックを見たが、それはきれいに無視される。仕方なくといったふうに首を戻して、彼は渋々口を開いた。
「お前だって馬は欲しいと思うだろ」
問いと言うよりは、確認の意味を持つ言葉。
クウヤは少し悩む。民衆から搾取するのは好きではない。少し前までは自分たちが搾取される側だったのだ。軍に属していたころは、道場で留守を預かるナナミが国の役所から何か無茶な要求をされているのではないかと、いつも心配だった。
自分の行動によって被害を被る人間がいると知っていて、それでも平気な顔で非道を働けるほど、クウヤは鈍感ではないし、悟ってもいない。
だが、しばらくの逡巡のあと、彼は軽く頷いた。
「ま、そですね。ちょっと借りるってことで」
繰り返すが、それなりの装備をした大の男を乗せられるような良馬は貴重で、よほどの金持ちか、貴族でもなければ飼えないのである。
例え見た目が思わず同情してしまうほど貧相でも、内部までそうであるとは言えないではないか。
クウヤはそう自分に言い聞かせると、風車に心の中だけで詫びを入れた。
「…何してんだ」
と思ったら、本当に頭を下げていたらしい。
イオの声は、少し諦めを含んでいるように聞こえた。
無意識の行動に恐れを感じながら、クウヤは急いで、前方で立ち止まっているふたりのほうへと向かった。置いて行かれてはたまらない。
彼が追いつくのを待って、イオが尋ねる。
「とりあえず様子を見てみるか、それとも問答無用で忍び込むか、どっちが好きだ」
クウヤは即答した。
「厨房に侵入するに清き一票を投じます」
投じた途端に腹の虫が鳴いた。
「…今ならナナミの料理をおいしいと思うあの心を取り戻せそうかも」
そうだ、最近、食欲が満たされていて、彼女の(空回りはするものの)暖かい心遣いを知らずのうちに邪険にしていた。作ってくれる昼食を食べはするものの、心からの礼を言っていない。
クウヤはふとそれに気づき、一刻も早く彼女の元に帰って謝りたくなった――だからと言って、彼女の料理を食べ続けたいわけではないが。
「それでも一年に二、三回は成功作だってあるんですよ、取り返しのつかないとんでもない失敗もまあ、その十倍以上ありますけど」
「…何の話だ」
いきなりまた独り言を口に出した後輩に、イオが奇異の視線を向けた。
「独り言です」
「人と一緒にいるのに独り言をいうのはやめたほうがいいと思うぞ」
誰かに言われたのだろうか、いつも大概自己中心的な名門貴族の坊ちゃんが、そんな良識的な発言をしてみせた。
クウヤは純粋に驚いて、目を丸くする。
「わ、イオさんにしては的確な意見ですね!」
「……」
クウヤは殴られた。